
帝国はどう広大な領土を統治したのか——ローマ・ペルシア・大英帝国・アメリカ覇権の比較史
アッシリアからアメリカまで、八つの帝国を「情報・忠誠・正統性」の三つの普遍問題への解法として読み直す。なぜローマは長続きしたのか、なぜアメリカは植民地なしで覇権を維持できているのか——その共通構造と相違を、年表ではなく機能の進化として整理する。
1. 導入:なぜローマは長続きし、なぜアメリカは植民地なしで覇権を保てているのか
まず、次の三つの問いから始めたい。
- なぜローマ帝国は、地中海全域を数百年にわたって統治しつづけることができたのか。
- なぜアケメネス朝ペルシアは、文化も言語も異なる多民族をひとつの帝国にまとめられたのか。
- なぜ現代のアメリカは、植民地を持たないまま世界規模の影響圏を維持できているのか。
これら三つは、一見すると別々の歴史的問いに見える。しかしいずれも、ある共通する課題への異なる回答である。すなわち、「自分の直接的な視野を超えた広大な領域と多様な人々を、どうやって安定的に統治するか」という問題である。本稿はこの問題を中心軸に、八つの代表的帝国——アッシリア、アケメネス朝ペルシア、ローマ、漢・唐、モンゴル、オスマン、大英帝国、アメリカ——を比較していく。
人類史の大半は、実は「帝国の時代」だった。近代国民国家単一民族・単一言語・単一文化を建前とする近代型の国家が成立したのは早くても17世紀以降であり、定型的な制度として世界に広まったのは20世紀後半である。それ以前の数千年、政治単位の標準形は、複数の民族と地域を抱えこむ広域支配体——すなわち帝国(empire)であった。
この観点を欠いたまま現代の国際秩序を見ると、いくつかの問いが見えにくくなる。なぜEUは半ば帝国的な制度設計をとりながら、それを帝国とは決して呼ばないのか。なぜアメリカは領土を拡張せずに世界規模の影響圏を維持できているのか。中国の「一帯一路」は冊封体制の現代版なのか、別物なのか。ロシアの周辺干渉は「ロシア帝国の慣性」とどう関係するのか。これらは、帝国という統治形態が長い時間をかけて発達させてきた統治技術(governance technology)の系譜を踏まえなければ、構造的には理解しがたい。
本稿は、メソポタミアの初期帝国から現代アメリカまでを、年表ではなく機能の進化として整理する。「情報をどう伝達したか」「忠誠をどう確保したか」「正統性をどう生み出したか」——この三軸で各帝国の解法を比較することで、帝国統治というシステムが時代を超えて何を継承し、何を組み替えてきたのかが見えてくる。
その上で、本稿は8つの帝国を均等に扱うのではなく、「帝国統治史の四つの転換点」を重点的に描く。すなわち、(1) アケメネス朝ペルシア——多民族帝国統治の基礎モデル、(2) ローマ——法と市民権による完成モデル、(3) 中華帝国(漢・唐)——官僚制による別系統の完成モデル、(4) アメリカ——領土なき覇権への現代的変形、の四つである。これらは単に大きな帝国というだけでなく、それぞれが「広域多様性を統治するという問題」に対する根本的に異なる解の発明を意味する。他の帝国(アッシリア、モンゴル、オスマン、大英帝国)は、この四本柱の理解を補助する比較対象として位置づける。本論の比重もこの構造に従う。
2. 時代背景・前提条件
2-1. 「帝国」の定義
学術的には、帝国の定義は意外と緻密である。Michael Doyle (1986) は帝国を「ある政治体が他の政治体の主権を、正式に統合するか実効的に従属させる関係」と定義した。Burbank & Cooper (2010) は、帝国の本質を差異の政治(politics of difference)——統治対象の多様性を否定するのではなく組織化することにあるとした。違いを消すのではなく、違いを残したまま組織する統治とでも言い換えられる。これは国民国家(統治対象を「国民」という単一カテゴリに均質化する)との決定的な違いである。
帝国を成立させる必要条件として、概ね次の三点が共通して挙げられる。第一に、多民族・多言語・多文化の領域を統治対象とすること。第二に、中心-周辺の階層構造を持ち、中心が周辺から資源・人員を抽出すること。第三に、拡張への志向を制度に組み込んでいること(平和維持型の連邦国家とは異なる)。
2-2. 広域統治の三つの普遍的問題
帝国がどの時代どの地域に成立しても、必ず解かなければならない三つの問題がある。本稿はこの三つを分析軸として用いる。
第一に、情報の問題。統治の意思を周辺に届け、周辺の状況を中央に集約するための物理的・制度的インフラ。距離が大きくなるほど、情報の伝達速度と量が支配可能領域の上限を決める。
第二に、忠誠の問題。遠隔地の支配層と現地住民が中央に従う動機をどう設計するか。武力による威嚇、経済的利益の配分、身分制への組み込み、信仰の共有——どの組合せでも構わないが、何らかの動機構造が必要になる。
第三に、正統性の問題。支配が単なる暴力に見えると、維持コストが上昇しすぎる。神話、法、宗教、イデオロギーなど、被支配側に「この支配は受け入れるべきものだ」と思わせる装置が要る。
以下、八つの代表的帝国を、この三問題への解法という観点から見ていく。
3. 八つの帝国それぞれの解法
3-1. アッシリア・新バビロニア——統治技術の発生(補助線)
本節以下、四つの主要転換点(ペルシア・ローマ・中華・アメリカ)に至る前段として、まずメソポタミアにおける統治技術の発生を確認する。ここで発明された基本部品が、後のペルシアモデルへと受け継がれていく。
帝国統治の制度的原型は、新アッシリア帝国(前911〜前609年)に遡ると考えられている。それ以前のメソポタミアにも広域支配の試み(アッカド帝国、古バビロニア)はあり、これらをもって「最初の帝国」と呼ぶ研究者もいるが、永続的な制度として整備したのはアッシリアであるという理解が、現在の主流的な位置づけである。
アッシリアの三大革新は次の通りである。第一に州制度(provincial system)。帝国を約20の州に分け、中央から任命された総督が統治する。総督は世襲ではなく任期付きで、軍事力と徴税権を持つが、その上に監察官的な役割を担う王直属の報告系統が並立した。中央集権と相互監視の制度的設計が、ここで初めて明確な形をとる(なお「王の眼(king's eye)」という有名な呼称はギリシア史料を介してペルシア帝国の監察制度を指すものとして流通しており、アッシリアにそのまま投影するのは慎重を要する)。
第二に強制移住政策。被征服民の上層を集団的に別地域へ移すことで、現地での反乱組織化を物理的に困難にした。ティグラト・ピレセル3世(在位前744-727年)以降の累計総数は、研究者によって幅があるが、数十万から数百万人規模と推計される(Liverani 2014; Oded 1979)。これは現代的視点では人権侵害だが、当時の統治技術としては「忠誠調達コストを引き下げる構造的解法」だった。
第三にアラム語の行政言語化。アッカド語の楔形文字は習得が困難で書記層が限られたが、アラム語のアルファベットは平易で普及しやすかった。帝国は実務面でアラム語を採用し、後の帝国にも影響を残した。言語インフラを変えると統治の毛細管構造が変わるという洞察は、これ以降の帝国にも繰り返し現れる主題である。
新バビロニア(前626-前539年)はアッシリアの遺産を継承したが、わずか80年あまりで滅びた。アッシリアと新バビロニアを合わせた「メソポタミア型」が後世に伝えた基本パッケージは、州制度・職業官僚・行政言語という、以後の多くの帝国に通底する三つの構成要素だったといえる。
3-2. アケメネス朝ペルシア——「寛容の制度化」と、その後世への影響
アケメネス朝(前550-前330年)は、メソポタミア型の継承を踏まえつつ、いくつもの革新を重ねた。ダレイオス1世(在位前522-前486年)の治世に体系化された統治制度は、その後の帝国モデルに長く影響を残す。本節は他帝国に比べてやや厚く扱う。理由は単純で、ペルシア統治モデルは同時代の批判者にも、軍事的に滅ぼした征服者にも、後世の長期帝国にも参照され続けたという、世界帝国史でも特異な後世的影響力を持つからである。
統治インフラの設計
サトラピー(州)制度帝国を地理的に分割した行政単位。長官「サトラップ」が統治。帝国を約20〜30の州に分け、各州の長官をサトラップと呼んだ。アッシリアの州制度に似るが、ペルシアの場合は徴税額が州ごとに厳格に定められ、王室会計に記録された。ヘロドトス『歴史』第3巻には20州それぞれの貢納額が列挙されている。
「王の道(Royal Road)」。サルディスからスサまで約2,700kmにわたる幹線道路と、約111箇所の駅伝中継地が整備された。ヘロドトス『歴史』8巻98節は、王の使者が中継地を継ぐことで、徒歩で90日かかる行程をはるかに短期間で踏破した、と伝える。これは情報伝達速度の制度的引き上げであり、後のローマ街道、モンゴルのヤム、英帝国の電信網に至るまで、形を変えて反復される基本ロジックの原型である。
多言語行政。ベヒストゥン碑文は古ペルシア語・エラム語・アッカド語の三言語で刻まれ、行政文書はアラム語を共通語とした。帝国は被支配民の言語と宗教を抹殺せず、上層に「ペルシア的なもの」を被せる構造をとった。
キュロス・シリンダーバビロン征服時にキュロス2世が発した宣言文を刻んだ円筒形粘土碑文。バビロン征服時にキュロス2世が発した宣言文で、現地神マルドゥクへの敬意と、捕囚民の帰還を約束する内容を含む。20世紀には「世界最古の人権宣言」と称揚されたが、現代の専門家(Briant 2002)は、これを近代的人権概念で解釈することは時代錯誤であり、古代近東に定型的だった「征服者が現地神への敬意を示す」儀礼の延長線上にあると指摘する。それでも、宗教的多元性を制度的寛容として組み込んだ点はペルシア統治の特徴である。
ギリシア知識人による評価——クセノフォンとアリストテレス
ペルシア統治は、ギリシア人の知的世界において、軽蔑と憧憬の両面で参照され続けた。これはペルシア戦争(前499-前449年)を経験したギリシア社会にとって、敵としてのペルシアと、モデルとしてのペルシアという二重性を抱える対象だった。
歴史家クセノフォン(前431年頃-前355年頃)は、『キュロスの教育(キュロパエディア)』においてキュロス2世を理想的君主として描き出した。これは厳密な歴史書というより一種の教育的政治哲学書だが、ペルシア型君主制がギリシア知識人にとって「秩序ある支配の模範」として受容されていたことを示している。クセノフォン自身がペルシアの王子小キュロスの傭兵として参戦した経験を持つ(『アナバシス』)ことも、この描写の背景にある。
これに対し、アリストテレス(前384-前322年)の評価はより複雑である。『政治学』第3巻第14章において、アリストテレスはペルシア型を「専制的君主制(despotism)」として分類した。これはギリシア人がしばしば嫌悪した「僭主制(tyranny)」とは区別される。僭主制が簒奪的で不安定な暴力支配であるのに対し、専制的君主制は世襲性と合法性を備えた、被支配民の暗黙の同意の上に成立する持続的統治形態として位置づけられた。ただし、アリストテレスはこれを「自由を本性とするギリシア人には不適合だが、従属に慣れた東方の民には自然な統治である」と論じており、この見方が後の西欧における「東方専制(Oriental despotism)」概念の出発点となった——ジャン・ボダンからモンテスキュー、さらにはマルクスのアジア的生産様式論まで連なる長い系譜である(Minuti 2018)。
ここで重要なのは、アリストテレスの個人的価値判断ではない。注目すべきは、彼がペルシア統治を「制度として安定して機能している」と認識していた事実である。批判的言辞の背後で、ペルシア型統治の現実的有効性は前提として認められていた。これは「敵を観察する者の視線」が最も鋭く制度を理解する、という典型的な構造である。
アレクサンドロス大王によるペルシア方式の継承
このアリストテレスから個人教育を受けた弟子こそ、ペルシア帝国を軍事的に滅ぼした人物——マケドニアのアレクサンドロス大王(前356-前323年)である。13歳から3年間にわたって師事した彼は、しかし、皮肉なほど積極的にペルシア統治方式を継承した。アリストテレスは「ペルシア型はギリシア人には不適合」と論じたが、その教え子はペルシア型を「自身の支配にこそ適合する」と判断したのである。
キュロス2世墓への巡礼(前324年)。インド遠征からの帰途、アレクサンドロスはアケメネス朝の旧首都パサルガダエにあるキュロス2世の墓を訪れた。アッリアノス『アレクサンドロス東征記』第6巻29章(2世紀執筆、随行歴史家アリストブロスの記録に依拠)によれば、彼は墓が盗掘されているのを発見して深く憤り、修復を命じた。アッリアノスはわざわざ「アレクサンドロスは常にキュロスの墓を訪れることを意図していた(had always intended)」と注記している(Anabasis 6.29.9)——これは、訪墓が単発の出来事ではなく、長期にわたる象徴的意図に基づくものであったことを示唆する。プルタルコス『英雄伝・アレクサンドロス伝』69章、ストラボン『地理誌』15巻3章7節にもほぼ同じ記述がある。墓には次のような碑文があったと伝えられる——「人間よ、私はキュロス、カンビュセスの子、ペルシアに帝国を与え、アジアの王であった。この記念碑を妬むなかれ」。
これは単なる古代遺跡見学ではない。アレクサンドロスにとって、キュロスは自身の統治を正統化するための「先帝」であり、彼自身は征服者というよりむしろアケメネス朝の正統な継承者として位置づけられたかった、と読むことができる。実際、彼はダレイオス3世の死後、ダレイオスを暗殺したベッソスを「王殺し」として処刑し、自らをアケメネス朝の継承者として演出した。
ペルシア宮廷儀礼の採用。前331年のガウガメラの戦いでダレイオス3世を破った後、アレクサンドロスは段階的にペルシア的統治様式を取り入れていく。ペルシア風衣装(王冠ディアデーマ、メディア風衣装)の着用、宮廷でのプロスキュネシス跪拝の礼。臣下が君主に対し平伏または手にキスを送るペルシア宮廷の作法の導入(前327年頃)などが代表例である。プロスキュネシスはギリシア人にとって「神に対してのみ行うべき行為」であり、強い反発を招いた。哲学者カリステネス(アリストテレスの甥)らがこれに公然と反対し、最終的にアレクサンドロスはギリシア人・マケドニア人に対する強制を断念した。ここに、ペルシア型統治への憧憬と、ギリシア的自由意識との緊張が露呈している。
サトラピー制度の継承。征服した州の多くで、アレクサンドロスはペルシア人サトラップをそのまま留任させるか、新たにペルシア貴族を起用した。これは「占領軍だけでは広域を統治できない」という現実的判断である。少数のマケドニア人(遠征軍は最大時でも約4万人)で数千万人規模の旧アケメネス領を維持するには、現地統治インフラを温存するしかない——これは後の大英帝国の間接統治と、機能的にきわめて類似する判断である。
スサの集団結婚式(前324年)。スサにおいて、アレクサンドロスは自らがダレイオス3世の娘スタテイラとアルタクセルクセス3世の娘パリュサティスと結婚し、約80人のマケドニア人高官にもペルシア・メディア貴族女性との結婚を行わせた。これはマケドニア人とペルシア人の支配層を血縁で融合させる試みである。マケドニア人将兵の不満は強かったが、アレクサンドロスは「アジアの王」としてのアイデンティティを優先した。この融合政策は、彼の死後、後継者たち(ディアドコイ)の多くがペルシア人妻と離縁したことで部分的に失敗するが、セレウコス1世だけは妻アパマ(ソグド貴族)との婚姻を維持し、その子孫が後のセレウコス朝を継承した。
結果としての帝国分裂と継承。これらの政策はマケドニア人重臣との間に深い亀裂を生み、暗殺未遂事件や粛清を引き起こした。アレクサンドロスの早すぎる死(前323年、32歳)の後、後継者戦争を経て帝国は分裂したが、彼が始めた「ペルシア方式を継承するヘレニズム的統治」は、セレウコス朝、プトレマイオス朝、さらにはローマ東方属州統治、ササン朝を経てイスラーム諸帝国にまで影響を残した。アレクサンドロスの死後、彼自身がそうあろうとした「アジアの王」のモデルは、その後の中東支配者たちが繰り返し参照する原型(イスカンダル像)となった。
構造的含意
ペルシア統治の歴史的意義は、その帝国そのものの寿命(約220年)を超えたところにある。最大の批判者(アリストテレス)が安定性を認め、最大の征服者(アレクサンドロス)が様式を継承し、後の長期帝国(ローマ、ササン朝、ビザンツ、オスマン)が部分的に参照する——この多重の参照関係こそ、ペルシア統治モデルの普遍性の証である。「制度は王朝より長く生きる」という、帝国統治の本質的真理をペルシアの事例ほど明瞭に示すものはない。
規模の点でも、ペルシアは古代世界で例外的に大きな帝国だった。世界人口に占める比率はしばしば「44%」(ギネス世界記録による)と引用されるが、これは推計の幅の上限に近く、近年の専門的研究はより控えめな数字を示す。詳細は4-bis節「規模で測る」で論じるが、いずれにせよ古代世界の人類の二割から四割という驚くべき規模をペルシアが統治していたことは、ここで強調しておくに値する。規模の大きさそのものが、上記の制度的洗練を要求し、また可能にしたのである。
「ペルシア」から「イラン」へ——1935年の国名変更
ここまで「ペルシア」と表記してきたが、現在この地域の国家は「イラン・イスラム共和国(Islamic Republic of Iran)」を正式名称とする。この呼称の差は、単なる表記揺れではなく、外部世界からの呼称(他称)と現地の自称(自称)の歴史的な乖離を反映している。
「Persia(ペルシア)」はギリシア語に由来する他称(エクソニム)であり、もともとはアケメネス朝の中心地であるイラン高原南西部の一地方「パールサ(Pars、現在のファールス州)」を指す名称に過ぎなかった。これがヘロドトス以来のギリシア人によって帝国全体を指す名称として用いられ、ローマを経て西洋世界に定着した。
一方、現地の人々はササン朝(224-651年)以降、自国を一貫して「イーラーン(Ērān、Iran)」と呼んできた。語源は「アーリヤナーム(Aryānām)」、すなわち「アーリヤ人の地」である。サーサーン朝初代王アルダシール1世(在位224-242年)のディナール貨幣銘文にも「Ērānshahr(イーラーン王国)」と刻まれており、フェルドウスィー『シャー・ナーメ』(11世紀初頭)を含むペルシア語文学を通じて連綿と使われ続けた内称(エンドニム)である。
1935年3月21日(ノウルーズ、ペルシア新年)、レザー・シャー・パフラヴィー(在位1925-1941年)は、外国政府に対して以後「Persia」ではなく「Iran」を公式名称として使用するよう要請する勅令を発した。動機は複合的である。①国民の自称と国際呼称を一致させ、近代国民国家としてのアイデンティティを確立する。②「Persia」という呼称に染みついていた、カージャール朝末期の弱体化・後進性のイメージから脱却する。③ペルシア人だけでなくアゼリー人、クルド人、ルル人など多様な民族を包含する国名としては「Iran」のほうが正確である——というものである(Marashi 2008; Zia-Ebrahimi 2016)。
なお、この改名をナチス・ドイツへの接近(「アーリヤ」概念の共有)と結びつける解釈が一部に流布しているが、これは時代錯誤的な誤りである。「Iran」という自称はナチズム成立より2,000年以上前から使われており、レザー・シャーの近代化路線はむしろケマル・アタテュルクのトルコに近く、ナチス的人種主義とは性格を異にする(Zia-Ebrahimi 2016)。
1959年、息子のモハンマド・レザー・シャーは「Persia」と「Iran」の併用も認める方針を出した。現在では、「Persia」は文化・歴史・芸術的文脈で、「Iran」は政治・現代的文脈で使い分けられるのが一般的である。本稿が古代帝国を扱う部分で「ペルシア」と表記しているのは、この慣用に従ったものであり、地域そのものは古来「イーラーン」であった——という事実を、ここに付記しておく。
3-3. ローマ帝国——「市民権の発明」と統治技術の完成形
ローマ(共和政期前509年-帝政後476年[西帝国])がペルシアと並んで世界帝国史の中核に位置づけられるのは、いくつもの統治要素を一つの統合システムとして機能させた点にある。法、市民権、街道、貨幣、軍団——これらは単独でも有効な制度だが、ローマはこれらを相互に補強する形で組み合わせ、結果として後世が「帝国とはこういうものだ」と認識する標準モデルを作り上げた。「すべての道はローマに通ず」「ローマ法大全」「パクス・ロマーナ」といった現代まで残るフレーズはすべて、この統合的システムの記憶である。
市民権拡大の革命性
ローマの最大の発明は、市民権を統治技術として用いた点にある。これはアッシリアやペルシアにはなかった発想である。古代ギリシアのポリス、たとえばアテネでは市民権は血統的に閉ざされており、ペリクレス時代(前451年)の市民権法によって両親ともアテネ市民でなければ市民権を取得できないと定められた。市民権は「閉じた特権」であり、外延的に拡張するものではなかった。
ローマはこの常識を反転させた。初期共和政期から、ローマは征服したラテン都市の住民に「ラテン市民権」「投票権なき市民権(civitas sine suffragio)」など段階的な市民権を授与し、政治体制への漸進的編入を進めた。同盟市戦争(前91-前88年)を経てイタリア半島の自由民全員にローマ市民権が拡大し、属州の有力者にも個別に市民権が与えられるようになった。決定的な転換点は後212年のカラカラ帝のアントニヌス勅令である。これにより、帝国内のほぼすべての自由民にローマ市民権が付与された。財政上の動機(市民権者にのみ課される相続税の対象拡大)も指摘されるが、結果として実現したのは「ローマ市民権を持つ者=帝国の一員」という新しい政治的アイデンティティの普遍化である。
これが革命的だった理由は三つある。第一に、征服が「劣位への転落」ではなく「特権獲得」を意味した。被征服民にとって、ローマ市民権は法的保護、相続権、ローマ市民同士の婚姻権、軍団兵としての出世可能性を意味した。征服に対する反発を構造的に低下させる装置だった。第二に、支配層の再生産が血統から開放された。属州出身者がローマ皇帝になることすら可能になり、実際にトラヤヌス帝(スペイン属州出身)、ハドリアヌス帝(同)、セプティミウス・セウェルス帝(北アフリカ属州出身)のような属州出身皇帝が登場する。第三に、忠誠のコストが劇的に下がった。市民権を持つ者は、暴力で従わせる必要がない。彼らは制度的利益によって自発的にローマと結びついていた。
これと比較すると、後の大英帝国が植民地住民を「英国臣民」のままで本国市民権を与えなかったこと、現代アメリカが影響圏住民に市民権を付与しないこと、20世紀の日本帝国が皇民化政策を採りつつも完全な国籍平等には至らなかったこと——これらすべてが、ローマ的解法の困難さを逆照射している。ローマがやってのけたことは、その後の帝国の多くが模倣できなかったのである。
ローマ法——なぜ帝国滅亡後も生き残ったのか
ローマ法は、ローマが生み出した最大の知的資産であり、帝国の物理的滅亡を超えて生き延びた、ほぼ唯一の帝国遺産である。なぜそれが可能だったのか。
ローマ法の発展は千年に及ぶ。十二表法(前450年頃)に始まり、プラエトル法務官の告示の積み重ね、共和政末期のキケロや古典期法学者(ガイウス、ウルピアヌス、パウルスら)による体系化を経て、最終的に東ローマ帝国のユスティニアヌス帝が編纂した『ローマ法大全(Corpus Iuris Civilis)』(528-534年)に結実した。これは『学説彙纂(Digesta)』『法学提要(Institutiones)』『勅法彙纂(Codex)』『新勅法(Novellae)』の四部からなり、ローマ法の千年の蓄積を体系的に整理した記念碑的文献である。
ローマ法の特徴は、具体的紛争処理の積み重ねから抽象的原理を抽出していく帰納的方法にある。中国法や中世イスラム法が比較的早い段階で経典化・成文化されたのに対し、ローマ法は法学者(jurisprudentes)が個別案件への意見(responsa)を積み重ねるなかで、ゆっくりと一般原則を析出していった。所有権(dominium)、契約(contractus)、不法行為(delictum)、信義誠実(bona fides)——これらの概念は、現代の民法でも基本骨格を構成する。
市民法(jus civileローマ市民の間にのみ適用される伝統法)と万民法(jus gentiumローマ市民・非市民を問わず適用可能な普遍的法概念)の区別は、特に重要である。万民法は、ローマが帝国化する過程で異邦人との取引を処理するために発達した。これは「ローマ市民でなくても適用される法」という発想を含んでおり、後の自然法思想や国際法の遠い原型となった。法的普遍主義の萌芽が、ここに認められる。
そして決定的なことに、ローマ法は帝国の崩壊後にむしろ生き延びた。西ローマ帝国が476年に滅亡しても、ローマ法は地中海世界の慣習法として残存し、教会法(canon law)に吸収され、11世紀末から12世紀のイタリアで再発見された(ボローニャ大学の興隆)。これがいわゆる「ローマ法の継受(Reception)」であり、その後のヨーロッパ大陸法の形成基盤となった。19世紀のドイツ歴史法学派(サヴィニーら)はローマ法を体系的に再構成し、これがドイツ民法典(BGB、1900年施行)に結実した。日本民法(1898年)はフランス民法典(ナポレオン法典、1804年)とドイツ民法典の双方から影響を受けており、現代日本民法の基本構造はローマ法の遠い末裔である。
ローマ法が生き残った理由は、第一に政治体制から相対的に独立した知的体系として整備されていたこと、第二に教会という別の制度的担い手に継承されたこと、第三に具体性と抽象性のバランスがよく、異なる時代・社会への翻訳可能性が高かったこと——これらが複合的に作用した結果である。これは「制度は王朝より長く生きる」という原則の、最も劇的な実例である。
街道・公用駅伝・貨幣・軍団——統合システムとしての帝国インフラ
ローマの物理的統治インフラは、個々の要素が単独で機能していたわけではない。四つの要素が相互に補強しあう一つのシステムとして作動していた点が、ローマ統治の真の革新である。
街道網。ローマ街道は総延長およそ40万km、そのうち舗装された幹線道路網だけでも約8万kmに達したと推定される(Garnsey & Saller 2014)。アッピア街道(前312年起工)以来、軍事的必要性から発達した。直線的な経路設計、層状構造の路盤、排水溝、マイル標石、橋梁、トンネル——これらの工学的水準は、19世紀の鉄道網登場まで凌駕されなかった。
公用駅伝(cursus publicusアウグストゥス帝が制度化したローマ帝国の公用通信・輸送制度)。アウグストゥス帝が前1世紀末に制度化した公用通信・輸送制度。約12-15kmごとに駅(mutatio)と宿駅(mansio)を配し、皇帝の使者、属州総督の書簡、軍事情報を迅速に伝達した。ペルシアの王の道を参照した可能性が指摘されるが、ローマの場合は街道網と一体化していた点が特徴である。
貨幣統合。デナリウス銀貨と、後にアウレウス金貨が地中海全域で通用したことで、商業統合と財政運営の前提が確保された。皇帝の肖像入り貨幣は、帝国の隅々まで流通する「動く正統性のメッセージ」でもあった。3世紀の銀貨悪鋳(銀含有量の低下)と財政危機は、貨幣統合の崩壊が帝国そのものの動揺と直結することを劇的に示した。
軍団(legio)。職業軍人化された約25〜30個の軍団が、辺境(リメス)に常駐した。軍団は単なる戦闘ユニットではなく、街道建設、土木工事、貨幣供給先(給与支払いを通じた経済刺激)、退役兵への土地配分による植民市建設(コロニア)——という多重的機能を担った。ローマ軍団のいるところに街道が伸び、街道沿いに都市が生まれ、都市にローマ法と市民権が広がり、市民権を得た住民が次世代の軍団兵となる——この相互強化の循環(現代的にいえば正帰還ループ)こそ、ローマ統治の核心だった。
つまり、街道は軍団のために作られ、軍団は街道を守り、貨幣は軍団を養い、市民権は軍団の出世経路を提供し、法はこれらすべての紛争処理基盤となった。個別要素を切り離して論じても本質は見えないのである。後世が「ローマ的統治」と呼ぶものは、この統合システムを指している。
強制でも寛容でもなく——ローマの第三の解法
これまで見た三つの帝国の解法を整理すると、ローマの位置づけが鮮明になる。
アッシリア型は強制中心だった。強制移住によって反乱の物理的基盤を破壊し、武力による威嚇で従わせる。これは短期的には効果的だが、被支配民の自発的協力は引き出せない。ペルシア型は寛容中心だった。被支配民の言語と宗教を温存し、上層にペルシア的なものを薄く被せる。これは反発を最小化するが、被支配民が「自分はペルシア人だ」と感じることはない。両者とも、被支配民は「他者として統治される」立場に留まる。
ローマの解法は、これらとは構造的に異なる第三の道だった。市民権という法的フィクションによって、被征服民を「ローマ人になる」経路に乗せたのである。これは強制ではない(暴力的同化ではない)。寛容でもない(被征服民をそのまま放置しない)。制度的統合とでも呼ぶべき第三の解法であり、被支配民を時間をかけて支配構造の内部へ引き上げる仕組みだった。
これは強制と寛容のいずれよりも長期的な安定をもたらしうる。だが同時に、条件の厳しい解法でもあった。市民権という制度的フィクションを真剣に運用するには、それを支える法体系、行政能力、軍事的安定が前提となる。ローマがこの条件を満たせたのは、共和政期に蓄積された制度的経験、地中海という比較的均質な地理的単位、ヘレニズム文化という共通の知的基盤——これらの複合的要因によるところが大きい。その後の多くの帝国(オスマン、清、大英、米国)が市民権の全面拡張を採用しなかったのは、これらの条件が揃わなかったことの帰結である。
ローマ統治モデルが「完成形」と呼ばれるのは、技術的精緻さや規模の大きさだけが理由ではない。強制と寛容を超える第三の道を、千年規模の試行錯誤を経て制度として実装したこと——ここにローマの歴史的固有性がある。
3-4. 中華帝国(漢・唐)——官僚制による別系統の完成解
地中海世界がローマという統治モデルを発達させたのとほぼ同じ時期、東アジアではまったく別系統の完成解が発達していた。それが、官僚制による広域統治モデルである。ローマが法と市民権で帝国を制度化したとすれば、中華帝国は文書と試験で帝国を制度化した。両者は同じ問題(広域多様性の統治)に対して、互いに知らないまま、根本的に異なる解を発明したことになる。これは比較史的にきわめて興味深い現象であり、また現代の中国政治を理解するうえでも遠い起点となっている。
郡県制——なぜ二千年以上持続したのか
秦(前221-前206年)が確立し、漢(前202-後220年)が継承した郡県制は、世界史的に見ても異例なほど長期持続した統治制度である。漢から清の崩壊(1912年)まで、政治体制が幾度も変わったにもかかわらず、地方統治の基本骨格としての郡県制は実に約2,100年にわたって維持された。同じ時間軸でローマ統治が再生産可能だったかを考えると、その持続性は際立つ。
郡県制の本質は、「地方統治者を中央派遣の官僚とし、世襲を許さない」という単純な原則にある。これは西欧の封建制(地方領主が世襲的土地保有と統治権を持つ)とは正反対の設計である。郡県制下では、太守(郡の長官)も県令(県の長官)も、中央政府が任命し、任期付きで赴任し、任期終了後は他地域に転任するか中央に戻る。地方権力が固定的土地基盤を持たない仕組みである。
この設計が二千年持続した理由は何か。第一に、地方権力の独立化を制度的に防ぐ装置として機能したこと。地方官は数年で転任するため、現地に独自の権力基盤を築くことが構造的に困難だった。第二に、支配層の再生産経路を中央が握ることができたこと。後述する科挙制と組み合わせることで、地方の有力家の子弟ですら、中央の試験に合格しなければ官職に就けない。これは「権力の血統的固定化」を制度的に阻止する。第三に、軍事と行政の分離。文官と武官の系統が分離していたため、地方官が軍事力を蓄積して反乱を起こすことが難しかった(完全に防げたわけではないが、構造的にコストが高かった)。
このシステムの代償は、地方の自律性が極度に低かったことである。西欧で発達した「地方自治」「市民権」「議会」といった概念は、中華帝国には体系として存在しなかった。これは現代中国の中央集権的傾向の遠い起源とも見られる。郡県制が二千年生き残ったということは、同時に、それと相容れない政治文化が育つ余地が二千年なかったということでもある。制度の長寿は、別の制度を生まない歴史的経路でもある——この観察は、現代の中国政治分析にも示唆を与える。
科挙制——世界史的に見たその異様な早さ
科挙は、家柄ではなく筆記試験で官僚を選抜する制度である。隋(587年に「進士科」として制度化)・唐で本格化し、宋代に体系として完成し、明・清まで継承された。1905年に廃止されるまで実に1,300年以上にわたって運用された、世界最長の競争試験制度である。
世界史的に見ると、これは異様なほど早い社会革新である。ヨーロッパが同様の競争試験で官僚を選抜するようになるのは19世紀以降である(英国における1853年のトレヴェリアン=ノースコート報告とその後の文官試験制度確立など)。中華とヨーロッパの差は約1,000-1,300年に及ぶ。なぜこれほどの先行があったのか。
科挙制の制度的革新性は三点ある。第一に、支配層の再生産経路を血統から能力(少なくとも筆記試験で測れる能力)へ部分的に開いたこと。完全な機会平等ではなかった——受験準備には経済力と時間が必要であり、農民の子弟が合格するのは現実には極めて困難だった。だが原理的には、出自に関わらず合格すれば官僚になれた。この「原理的開放性」の存在自体が、世界史的に早い革新だった。第二に、選抜基準が単一であったこと。科挙の試験内容は四書五経の解釈、詩文作成、政策論文(策論)など儒教古典に集約されていた。これは支配層全員が同じ知的訓練を共有することを意味し、結果として巨大帝国の隅々まで均質な統治文化を浸透させた。第三に、制度が王朝交代を超えて持続したこと。元朝(モンゴル支配下)で一時的に縮小されたものの、明・清で復活し、清朝が満洲族の支配王朝であっても採用しつづけた。これは「制度が支配民族を選ばない」という稀有な現象である。
Max Weberが『支配の社会学』で論じた合理的官僚制論は、明示的に中華の官僚制を比較対象としていた。ヴェーバーは科挙官僚制が近代的合理性に向かう諸要素(成文規則、文書による統治、専門性、非世襲性)を含んでいたと評価する一方、儒教倫理の枠内に閉じていたために真の意味での「合理化」には進まなかった、と分析した。この評価には現代の研究者からも反論があるが(エリザベス・ペリーら)、いずれにせよ近代官僚制を考えるとき、中華科挙制度を参照対象から外すことはできないというのが現在の共通認識である。
冊封体制——直接統治を伴わない秩序形成
中華帝国がもう一つ発達させた独自の統治装置が、冊封体制である。これは、周辺諸国の支配者を中華皇帝が「冊封」(任命書を授ける)することで形式的な君臣関係を結び、定期的な朝貢(貢物を捧げる外交使節派遣)と回賜(皇帝側からの返礼)を交換する仕組みである。漢代に原型ができ、唐代に体系化され、明・清で完成形に達した。
冊封体制の特徴は、直接統治を伴わない点にある。冊封を受けた国は、内政・外交ともに事実上独立であり、中華帝国の官僚が派遣されるわけでも、軍が駐留するわけでも、税が中央に送られるわけでもない。それでも形式的には「中華皇帝を頂点とする階層秩序」が存在する。これは現代的に見ると、軍事同盟でもなく植民地でもない、第三のカテゴリの国際秩序である。
歴史家の濱下武志は『朝貢システムと近代アジア』(1997)において、この朝貢=冊封体制を単なる政治儀礼ではなく、東アジア・東南アジアにまたがる広域経済・文化秩序の制度的枠組みとして再評価した。朝貢に伴う公式貿易、朝貢使節団に随伴する民間商人による私貿易、朝鮮・琉球・ベトナム・シャムなど各地の中華型制度の自発的採用——これらは政治的従属関係に還元できない、自律的な秩序形成のメカニズムだった、というのが濱下の議論である。
これは現代の覇権論議に直接連なる。領土的支配を伴わない秩序形成という発想は、後の大英帝国の「非公式帝国(informal empire)」、現代アメリカの制度的覇権と、機能的に類似する論理を含んでいる。中国の現代外交における「一帯一路」構想を冊封体制の現代版と見るかどうかについて学術的論争があるが(王 2014ほか)、いずれにせよ「直接統治しないで影響圏を作る」という発想の最古の体系的事例の一つとして、冊封体制は世界帝国史において独自の地位を占める。
周辺地域への制度的波及——東アジア文化圏の形成
中華帝国の統治モデルが世界史的に重要なもう一つの理由は、周辺諸国がこれを自発的に模倣・移植したことにある。これは強制された同化ではなく、制度的優位を認めての主体的選択であった点が重要である。
日本は7世紀末から8世紀初頭、唐の律令制を全面的に導入した。大宝律令(701年)、養老律令(757年)は、唐律令の構造を直接模倣している(渡辺 2003)。中央官制(二官八省一台五衛府)、地方統治(国郡里制)、班田収授法、租庸調制——いずれも唐制の翻案である。さらに平安期以降、漢字、仏教、儒教、漢詩、史書の編纂方式(『日本書紀』は中国正史を模倣)に至るまで、知的・制度的基盤の多くが中華起源である。ただし、科挙制度だけは日本では本格的に定着しなかった(平安期の文章博士などは一部存在したが、貴族の世襲的特権が強かったため)。「日本は中華のすべてを輸入したわけではなく、選択的に取捨選択した」という事実は、文化伝播論的に興味深い。
朝鮮(高麗・李氏朝鮮)は、日本よりさらに徹底して中華型制度を採用した。高麗(958年)で科挙を導入し、李氏朝鮮(1392-1897年)では官僚制の中核に据えた。朝鮮の科挙(文科・武科・雑科)は中華のそれを精密に模倣しつつ、両班(ヤンバン)という独自の貴族階層と接合された。儒教(特に朱子学)を国家イデオロギーとして全面採用した点でも、朝鮮は中華型統治モデルの忠実な実装者だった。
ベトナムもまた、独立後(10世紀以降)に中華型律令と科挙を導入した。李朝(1009年〜)以降、ベトナムは「南国」を自称しつつ、行政制度・科挙・儒教は中華のものを採用し続けた。これは漢字文化圏の南限を形成した。
琉球、シャム、ビルマなども程度の差はあれ、冊封体制の枠内で中華型統治要素を選択的に取り入れた。こうして東アジア・東南アジア大陸部に「中華型統治モデルを共有する文化圏」が形成された。これは政治的に統合された帝国ではないが、制度的・文化的に統合された圏であり、ローマがラテン語と法を通じて西欧に残した文化的遺産と機能的に類似する。「ラテン世界」「中華世界」という対概念は、こうした制度伝播の結果である。
中華帝国が「もう一つの完成解」と呼ばれるのは、単に長期持続したからではない。ローマと匹敵する規模の文化的・制度的遺産を、ローマと並行して、ローマとは独立に、ローマとは異なる原理で生み出したこと——この事実こそが、世界帝国史における中華の位置を不可欠にしている。
3-5. モンゴル帝国——「規格化なき統合」(補助線)
本節以下は、ペルシア・ローマ・中華という三つの完成解と比較するための補助線として、モンゴル・オスマン・大英帝国を簡潔に位置づける。
13世紀のモンゴル帝国(1206-1368年)は、人類史上最大の陸続きの帝国を出現させた。最盛期にはユーラシアの東は朝鮮半島、西は東欧まで、約3,300万km²を覆ったとされる(全陸地のおよそ22%に相当)。
モンゴル統治の特徴は、現地の制度を破壊せず、その上に薄い統合層を被せる点にある。中国を統治した元朝は中華の科挙制度こそ縮小したが、官僚機構の大部分を継承した。ペルシアを統治したイル汗国はペルシア官僚制を温存した。中央アジア・ロシアを統治したジョチ・ウルスは、テュルク・イスラム文化を採用していった。帝国全体に統一規格を強制せず、現地の制度上にモンゴル王権の正統性を被せる——これがモンゴル統治の基本設計である。
統一規格は最小限の三つに絞られた。
ヤム(駅伝制)。数万頭規模の馬と数千の中継地を帝国全域に整備し、情報伝達と人員移動を支えた。ペルシアの王の道、ローマのcursus publicusの遥かな後継であり、規模は史上最大級である(Morgan 2007)。
ヤサ(法令)。チンギス・ハーンが制定したとされる帝国基本法。具体的内容は原典が散逸しており復元には議論があるが、商人保護、宗教的中立、軍規律などを含んでいたとされる。
宗教的中立。チベット仏教、イスラム教、ネストリウス派キリスト教、儒教、シャマニズムなど、多様な宗教を統治目的のため等しく利用した。これは寛容というより実利主義的中立であり、ペルシアの「敬意の制度化」とは性格を異にする。
「タタールの平和(Pax Mongolica)」と呼ばれる時期、ユーラシア大陸を東西に貫く交易と情報の流通が活発化し、マルコ・ポーロやイブン・バットゥータの旅行が成立した。広域統治がグローバル化の物質的基盤を作るという現象は、後の大英帝国でも反復される論点である。
3-6. オスマン帝国——「差異の制度化」(補助線)
オスマン帝国(1299-1922年)は、約600年にわたって続いた長命な帝国である。三大陸(欧州・アジア・アフリカ)にまたがり、多くの民族と宗教を包摂した。ローマの市民権による統合と対極の解法を示す、重要な比較事例である。
オスマン統治を特徴づけるのがミッレト制である。宗教共同体(ミッレト)ごとに、その内部の宗教・法・教育・婚姻などを共同体の宗教指導者に委ねた。正教徒ミッレトはコンスタンティノープル総主教、ユダヤ教徒ミッレトはハーハム・バシ、アルメニア教徒ミッレトは独自の総主教が代表する。異教徒は強制改宗されず、また均質な「オスマン臣民」にもされない。差異を否定するのでも、解消するのでもなく、差異そのものを統治単位として制度化した点が、ローマ的普遍主義との対比をなす(Quataert 2005)。
軍事と官僚の供給源として運用されたデヴシルメバルカン半島のキリスト教徒少年を徴集し、改宗・教育のうえ近衛軍と宮廷官僚に編入する制度。バルカン半島のキリスト教徒の少年を徴集し、改宗・教育のうえ、近衛軍(イェニチェリ)と宮廷官僚に編入した。これは「血統を超えた能力本位主義」の一形態だが、現代的な意味の能力主義とは異なる。血統的に支配層の外側にいる者を、教育と忠誠の制度を通じて統治の中核に据える——いわばマムルーク型システムの極致である。
ティマール制軍事奉仕の対価として土地の徴税権を授与する制度。原則として非世襲。軍事奉仕の対価として土地の徴税権を授与する制度。西欧封建制と表面的に似るが、ティマールは原則として世襲ではなく、官位として国家に保有された。これは「土地と権力が固着化しない」設計であり、長期的に貴族層の独立を抑える効果をもった。
オスマン帝国は、多様性を「均質化」ではなく「制度化」によって統治するモデルの完成形である。19世紀の近代化改革(タンジマート、1839年-)は、皮肉にもこのミッレト的差異の制度化を解体し、近代的国民概念に向かおうとした過程であり、最終的には民族主義の連鎖反応によって帝国そのものが解体した。
3-7. 大英帝国——「間接統治」と「自由貿易帝国主義」(補助線)
大英帝国(おおむね17世紀-20世紀)は、ローマと米国の中間に位置する重要な過渡的事例である。市民権の全面拡張は採用せず、現代アメリカの完全に非領土的な覇権でもない、両者の中間形を示す。
間接統治(indirect rule)。インドではマハラジャの諸藩王国(独立前のインドに565ほど存在した)を温存し、外交・軍事の上位権だけを抑える形をとった。アフリカでもナイジェリア北部などで、現地首長制を温存しつつ駐在官(resident)を派遣する仕組みを用いた。植民地行政の理論家ラガード卿(Lugard 1922)はこれを統治哲学として体系化した。間接統治は安価で、現地住民の反発を相対的に低く抑え、少数のイギリス人で広大な領域を支配することを可能にした。
自由貿易帝国主義。Gallagher & Robinson (1953) の古典的論文以降、英帝国の本質は領土の所有ではなく、有利な貿易と投資環境の確保にあると理解されてきた。中国(アヘン戦争後の不平等条約)、ラテンアメリカ(英国資本の浸透)、オスマン帝国(関税自主権の制限)——これらは英国の植民地ではなかったが、非公式帝国(informal empire)正式な植民地ではないが、金融・通商・外交を通じて実質的に支配する形態を構成した。領土的支配なき支配という発想は、現代アメリカに直接連続する。
ウェストミンスター・モデルの輸出。自治領(dominion)としてのカナダ(1867)、オーストラリア(1901)、ニュージーランド(1907)、南アフリカ(1910)では、英国議会制を移植した。これは独立後も英連邦(Commonwealth)としての制度的紐帯を残し、文化・法・教育の連続性を温存した。
情報インフラ。海底電信網(いわゆる「All Red Line」)は20世紀初頭に英帝国を一周する電信回線を完成させた。これは情報伝達の革命であり、ロンドンから即時にインドや香港に指示を出せる「情報帝国」の出現である(Headrick 1991)。
3-8. アメリカ——「領土なき覇権」という現代的変形
20世紀後半以降のアメリカは、領土的拡張を放棄したまま、史上最大の影響圏を維持してきた。これを「帝国」と呼ぶかは学術的論争があり(Maier 2006, Ferguson 2004)、米国自身は「帝国」というレッテルを拒絶してきた。しかし統治機能の観点からみれば、過去の帝国が解いた三問題(情報・忠誠・正統性)に対する解法を、新しい技術と制度で再構築している、と整理できる。アメリカ覇権モデルが本稿で第四の柱として重要視されるのは、それが単なる古典的帝国の延長ではなく、「広域多様性の統治」という普遍問題への、20世紀後半固有の新しい回答を構成しているからである。
なぜ領土を持たずに支配できるのか
アメリカ覇権の最大の特徴は、領土的支配なしに広域的影響力を維持している点である。これは古典的帝国(支配=領土の保有)の常識に反する。なぜそれが可能なのか。
第一の理由は、20世紀の技術革命によって、領土的支配の必要性そのものが低下したことである。19世紀の電信革命と20世紀後半の電子化により、情報・資本・意思決定は領土的境界を超えて瞬時に流通するようになった。古典的帝国が領土を持たねばならなかった理由——資源抽出、軍隊配置、徴税、情報伝達——のうち、徴税以外は領土の物理的保有を必ずしも要求しない形に変質した。多国籍企業による資源獲得、世界金融市場による資本調達、衛星通信網による情報伝達、長距離投射可能な空海軍——これらが揃えば、「占領せずに影響を及ぼす」ことが技術的に可能になる。
第二の理由は、第二次大戦後の国際秩序が「多国間制度を通じた覇権」を許容する設計だったことである。ブレトン・ウッズ体制(IMF、世界銀行)、GATT/WTO、国連、NATO——これらは形式的には多国間主義をとりつつ、実質的に米国の安全保障・通貨・貿易上の選好を反映する設計である。Geir Lundestadはこれを「招かれた帝国(empire by invitation)」被統治側が自発的に参加することで成立する覇権形態と呼んだ。冷戦下の西側諸国にとって、米国の安全保障の傘の下に入ることは、ソ連の脅威に対する合理的選択であり、半ば自発的な参加だった。強制ではなく招請による参加という構造が、領土的併合の必要性を消去した。
第三の理由は、国民国家を建前とする20世紀後半の国際規範が、領土的併合を強い禁忌としたことである。国連憲章(1945年)の主権平等原則、自決権原則のもとでは、領土併合は「侵略」と扱われる。米国にとっても、戦後の領土的拡大は規範的にも実利的にもコストが高すぎる選択肢だった。代わりに、独立国家としての形式を温存しつつ、その意思決定の重要部分に影響を及ぼす——という非領土的支配が、唯一実行可能な覇権形態となった。
なぜローマのように市民権を拡張しないのか
ここで重要な問いが浮上する。ローマが市民権を拡張することで安定的統合に成功したならば、なぜアメリカは同じ解法を取らないのか。プエルトリコ、グアム、米領サモア、北マリアナ諸島の住民は、限定的な市民権を持つに留まる。日本、韓国、ドイツ、英国は米軍駐留を受け入れ米国の安全保障の傘の下にあるが、これらの国民が米国市民権を持つことはない。
この非拡張は、いくつかの構造的理由を持つ。第一に、規模の問題。ローマの市民権拡張は、地中海全域でおおむね数千万人規模だった。米国がもし影響圏全体に市民権を拡張すれば、対象は数十億人規模になりうる。これは米国の政治体制(連邦議会、選挙人制度、社会保障)が処理可能な範囲を遥かに超える。市民権拡張は、本国の政治体制が拡張対象を吸収しうる規模であることを前提とするのである。
第二に、国民国家としての自己定義との緊張。米国はそもそも独立革命を通じて、英国帝国の臣民であることを拒絶することで建国された。「市民権の拡張」は、ローマでは帝国の論理だったが、米国にとっては建国の物語と矛盾する。米国は自己を「帝国ではない自由の国」として定義する必要があり、市民権の戦略的拡張という古典的帝国手法を採用することが、アイデンティティの根幹と衝突する。
第三に、人種・民族・文化の同質性問題。米国の社会統合は、移民の段階的同化を前提として運営されてきた。一度に大量の影響圏住民を市民権付与することは、この同化前提を崩壊させかねない。20世紀の移民政策論争は、この緊張が断続的に表面化したものである。
こうしてアメリカは、ローマ的な「市民権による統合」を選択せず、別の道——制度・通貨・軍事・文化による機能的代替——を選んだ。これが、領土なき覇権の支配機能を成立させている四つの柱である。
制度・通貨・軍事・文化——支配機能の四本柱
制度的覇権。前述の通り、IMF・世界銀行・WTO・国連・NATOなど多国間制度を通じて、米国は形式的多国間主義をとりつつ実質的な意思決定影響力を確保する。これは古代の「冊封体制」と機能的に類似する——直接統治をせず、形式的対等性を保ちつつ、階層的秩序を運営する。ただし冊封体制が「中華皇帝を頂点とする秩序」を露骨に表明したのに対し、米国主導の多国間制度は「対等な主権国家の協議」という建前を強く維持する。これは正統性のコストを下げる装置である。
通貨基軸性。ドルが基軸通貨であることは、米国にいわゆる「過大な特権(exorbitant privilege)」基軸通貨発行国が自国通貨建てで対外借入できる優位性を与える(フランス財務大臣ジスカール・デスタンが1960年代に用いた表現)。世界の貿易・準備通貨の中心に座ることで、米国は自国通貨建てで対外借入ができ、また経済制裁を通じてドル決済システムから他国を排除する力を持つ。SWIFT(国際銀行間通信協会)を介したドル決済網からの排除は、現代的「経済的破門」として、軍事介入よりも低コストで強力な強制力を発揮する。ロシア(2022年)やイラン(複数回)に対するSWIFT制裁は、この通貨的支配力の現代的発露である。
軍事プレゼンス。世界70ヶ国以上に米軍基地や駐留施設が展開し、地球規模の即応体制を維持する。これはローマの辺境砦、英国の海軍基地網と機能的に類似するが、規模は史上最大級である。重要なのは、これらの基地が領土的併合を伴わずに駐留している点である。日米地位協定、米韓相互防衛条約、NATO駐留協定など、相手国の主権を形式的に尊重しつつ実質的軍事プレゼンスを確保する法的枠組みが整備されている。これは「主権の論理」と「軍事プレゼンスの論理」を制度的に両立させる、現代固有の発明である。
文化・知的覇権。ハリウッド、英語、米国大学制度、グローバルなIT産業——これらは強制ではなく自発的選好を通じて広がっており、グラムシ的な「ヘゲモニー」概念に近い性格をもつ。世界の高等教育がますます英語化し、研究はますます米国学術誌に依拠し、エンタテインメントは米国コンテンツが世界市場を支配する。これは「自発的同化」とも呼べる現象であり、ローマがラテン語と都市生活を通じて行ったことの、規模を桁違いに拡大した現代版である。米国はこの面において、軍事や通貨に劣らず強力な統合装置を持つ。
このモデルの脆弱性
領土なき覇権モデルは、低コスト・高弾力性・低反発という利点を持つが、同時にいくつかの構造的脆弱性を抱える。
第一に、正統性の脆弱性。ローマや英国の自治領モデルと違い、米国の影響圏に組み込まれた国の住民は、米国の意思決定に発言権を持たない。「米国の選挙の結果が世界に影響するのに、世界は投票できない」という「グローバル代表なき統治」の問題が構造的に存在する。これは支配コストの低さと引き換えに、正統性の根拠を「米国の規範的優位性」に依存させる。米国が国際規範を破ったとき(イラク戦争2003年、各種の単独行動主義など)、正統性は急速に毀損する。
第二に、ドル基軸性への構造的挑戦。SWIFT制裁の頻繁な行使は、皮肉にもドル決済システムを回避する動機を他国に与える。中国の人民元国際化、デジタル通貨(中央銀行デジタル通貨、暗号資産)、BRICS+の独自決済システム構想——これらはいずれもドル基軸性に対する代替模索である。基軸通貨の地位は、過去にもオランダ・ギルダー、英国ポンドという交代があった通り、永続的に保証されたものではない。
第三に、軍事プレゼンスの財政コスト。世界70ヶ国以上への米軍駐留は、長期的に米国財政に大きな負担を強いる。Paul Kennedy(1987)の「帝国過剰拡張(imperial overstretch)」命題——軍事的義務が経済基盤を凌駕すると衰退する——は、ローマやスペインを念頭に置いた古典的議論だが、米国にも当てはまる可能性がしばしば論じられてきた。冷戦終結直後の「平和の配当」期待が実現せず、対テロ戦争を含む長期的軍事関与が続いたことで、財政・社会的負担が継続している。
第四に、文化的覇権の相対化。インターネット時代の文化生産は、地理的に分散している。韓流コンテンツ(K-POP、Kドラマ)の世界的台頭、インド映画産業の規模拡大、中国・中東のメディア企業の台頭——これらはハリウッドと英語コンテンツの一元的支配を相対化しつつある。文化的覇権は、軍事や通貨に比べて模倣・代替されやすい領域である。
これらの脆弱性は、必ずしも米国覇権の崩壊を意味しない。だが、領土なき覇権モデルが「永続的に最適解」とは限らないことを示唆する。古典的帝国が領土の拡大しすぎで自壊したように、現代的覇権モデルもまた、その独自の論理に内包された限界を持つ。「制度・通貨・軍事・文化の四本柱で支配する」モデルがどこまで持続可能か——これは21世紀の中盤に向けて、現実の歴史が答えを出していく問いである。
4. 因果関係・転換点の分析
帝国統治の進化を、当初設定した三つの軸(情報、忠誠、正統性)で再整理する。なお、これらは単線的な「進歩」ではなく、地域・時代・偶発的事情によって組み合わせが変わるレパートリーの拡大として捉えるのが妥当である。
4-1. 情報伝達技術の進化
情報インフラは、帝国の規模を物理的に規定する変数として最も基本的である。各時代の代表的情報インフラを並べると次のようになる。
| 時代 | 主要な情報インフラ | 帝国 | 制約の質 |
|---|---|---|---|
| 前9世紀- | 楔形文字粘土板 + 騎馬伝令 | アッシリア | 書記層の薄さが情報量の上限 |
| 前6世紀- | 王の道 + 駅伝 | ペルシア | 道路網保守と中継地維持コスト |
| 前2世紀- | 街道 + cursus publicus | ローマ | 道路保守と治安維持 |
| 13世紀- | ヤム(駅伝) | モンゴル | 遊牧的補給ネットワークの限界 |
| 19世紀後半- | 海底電信網 | 大英帝国 | 物理的人員移動を超えて瞬時化 |
| 20世紀後半- | 衛星通信・インターネット | 米国 | 情報の非対称性が新しい権力源 |
ここで重要な転換点は二つある。第一に、19世紀の電信革命。物理的人員移動を介さない情報伝達が初めて可能になった。これにより、帝国の規模を制約していた「情報の遅延」という物理的制約が原理的に解除された(Headrick 1991)。第二に、20世紀後半の電子化。情報のコスト・速度・容量がほぼ同時に革命的に改善され、国境を越える情報フローが、領土的支配の必要性を相対化した。これがアメリカ的覇権モデルの物質的基盤である。
4-2. 正統性生産の進化
正統性の源泉も時代によって変遷した。これも単線的進化ではない(現代でも宗教的正統性は機能している)が、大まかな移行傾向は観察できる。
| 正統性のタイプ | 具体例 | 主な事例 |
|---|---|---|
| 神政型 | 王は神の代理人 | 古代メソポタミア、エジプト、初期中国の天命思想 |
| 法的 | 支配は法に根拠を持つ | ローマ法、唐の律令 |
| 宗教的 | 帝国は宗教共同体の保護者 | ビザンツ、オスマン、神聖ローマ |
| イデオロギー的 | 帝国は普遍的価値の体現者 | 19世紀帝国主義の「文明化の使命」、ソ連の社会主義、米国の自由民主主義 |
| 制度的 | 多国間秩序の維持者 | 現代アメリカ |
「神の意志」から「制度と価値の体現」への大まかな移行は、被統治者側にも「自分の納得」を要求する度合いを高めていく。正統性の根拠が抽象化するほど、被支配側の同意のコストは下がるが、同時にその同意を維持するコストは上がる——というトレードオフが存在する。
4-3. 忠誠管理の進化
忠誠管理は、おおまかには暴力中心 → 利益中心 → 信念中心という三段階の比重移動として整理できる。アッシリアの強制移住は暴力中心、ローマの市民権は利益中心、現代アメリカの「自由民主主義の共有」は信念中心である。ただし、これも単純な進歩史観で読むべきではない。後の段階に進むほど統治コストが下がるが、同時に被統治者の自発的同意が不可欠になるため、正統性危機への脆弱性が高まる。アメリカ覇権の現代的不安定性の構造的根は、このトレードオフのなかにある。
4-4. 五つの主要な転換点
帝国統治史を貫く主要な転換点を、五つに整理する。「累積する進化」というより、「新しいレパートリーの追加」として読むのが安全である。古い解法も、ある時代には呼び戻されて使われる。
(1) 血縁から領土へ(ペルシア): サトラピー制度が、王の血族への領地分与から領土を統治単位とする発想への移行を示した。(2) 強制から法へ(ローマ): 市民権という法的フィクションが、軍事的征服を統合プロジェクトに転換した。(3) 血統から能力へ(中華・科挙): 官僚選抜が支配層の再生産を血統の外側に開いた。(4) 直接から間接へ(大英帝国): 間接統治と「非公式帝国」が領土支配のコストを劇的に下げた。(5) 領土から制度へ(アメリカ): 多国間制度と通貨基軸性により、領土を持たない覇権モデルが完成した。
4-bis. 規模で測る——各帝国が支配した世界人口の比率
統治技術の進化を「機能」として論じてきたが、ここで各帝国の規模を、当時の世界人口に占める比率という尺度で並べてみたい。直感的に分かりやすい指標である一方、数字そのものが学術的にかなり不確実であり、扱いに注意が要る。両論併記的に整理する。
一般によく引用される人口比率は、ほぼ次の通りである(出典: ギネス世界記録、ウィキペディア、各種一般向け歴史書)。
| 帝国 | 時期 | 世界人口比(通説) |
|---|---|---|
| アケメネス朝ペルシア | 前480年頃 | 約44%(4,940万/1.12億人) |
| 清(乾隆期) | 1800年頃 | 約37%(3.3億/9億人) |
| モンゴル帝国 | 1270〜1309年 | 約25%(1億/4億人) |
| ローマ帝国 | 2世紀(トラヤヌス期) | 約25〜30%(7,500万/3億人) |
| 漢(後漢) | 2年 | 約25%前後(5,770万人) |
| 大英帝国 | 1913年 | 約23%(4.12億/18億人) |
| 唐 | 754年頃 | 約25%(5,280万人) |
| オスマン帝国 | 16世紀末 | 約5〜6% |
目を引くのは、アケメネス朝ペルシアの「44%」である。ギネス世界記録は「人口比率としては史上最大の帝国」とアケメネス朝を認定している。
ただし、この「44%」は専門家の間で批判を受けている(Manning 2014/2024)。論点は二つ。第一に、ペルシア帝国人口推計の幅が大きいこと——McEvedy & Jones は約1,700万人、Aperghisでも約3,000〜3,500万人と、4,940万人より相当低い。第二に、当時の世界人口推計が低すぎる可能性。インド・東南アジア・サブサハラの人口は伝統的に過小評価されてきた。両方を補正すると、ペルシアの世界人口比は約20〜25%に落ち着くというのが、現在の専門的見解の主流である。
とはいえ、44%でも20%でも、ペルシアが古代世界で例外的な規模の帝国だったことは揺るがない。20%でも当時の世界の五人に一人がアケメネス朝の臣下である。規模の大きさそのものが、3-2節で見た制度的洗練(サトラピー、王の道、寛容)を要求し、また可能にしたのである。同様の留保は他帝国の数字にも程度の差はあれ当てはまる。古代人口研究の常識として、絶対値ではなく桁(オーダー)のレベルで議論するのが妥当である。
5. 同時代との比較
主要な四本柱の解法を、同時代の他帝国と並べると、それぞれの構造的特徴がさらに鮮明になる。
5-1. ローマと漢——前1世紀の二大帝国。紀元前後、地中海のローマと東アジアの漢は、互いをほぼ知らないまま、ともに数千万人規模の帝国を運営していた(Scheidel 2009)。統合原理: ローマは「市民権と法」、漢は「官僚制と儒教倫理」。崩壊期の経緯: ローマは西方が外族侵入で崩壊、漢は内部抗争(党錮の禁、黄巾の乱)を経て三国に分裂。両者の対照は、「個人を法的に組み込む」モデルと「個人を官僚機構と儒教倫理に組み込む」モデルの対照である。後者は中華王朝として20世紀初頭まで反復され、その粘り強さは前者を凌駕した。
5-2. オスマンと清——近世の多民族帝国。17〜19世紀のオスマンと清は、ともに宗教・民族ごとの区分統治を用いた。オスマンのミッレト制と清の藩部・八旗体制は、ともに均質化ではなく差異の制度化を採用した。両者とも19世紀にヨーロッパ列強と接触するなかで、近代国民国家の論理に侵食される経験をし、結果として帝国そのものが解体した。
5-3. 大英帝国と日本帝国——同時代の対照。日本の帝国経験(1895-1945年)は短命で集中的だった。大英帝国の間接統治とは異なり、皇民化政策にみられる同化志向が強かった。ローマの市民権付与とは異なる論理を持つ——市民権が法的フィクションを通じた統合だったのに対し、皇民化は文化・言語・宗教の同化を要請するもので、被支配側の固有性を尊重しない点で抑圧的だった。帝国としての制度的成熟期を持たないまま崩壊した点で、長期帝国とは性格が大きく異なる(山本編 2003)。
6. 歴史解釈上の論点
6-1. 「アメリカは帝国か」論争
冷戦終結以降、米国を帝国と呼ぶべきか否かが学術的論争となっている。
肯定派(Niall Ferguson, Colossus, 2004)は、米国は事実上の帝国であり、その事実を直視して責任を引き受けるべきだと論じる。否定派(多くの米国政治学者)は、米国は領土を併合せず、被支配住民を市民権で組み込まず、現地政府を温存している、これは過去の帝国とは構造的に異なる、と主張する。中間派(Charles Maier, Among Empires, 2006)は、「帝国」を厳密に定義すれば米国は帝国ではないが、「ヘゲモニー(覇権)」と「帝国」の機能的境界は曖昧で、両者の区別は連続的なものだと位置づける。
この論争は単なる用語の問題ではない。米国の対外行動を歴史的にどう位置づけるかという解釈枠組みの選択を含んでいる。本稿のように「広域多様性の統治技術」という機能的観点から見るならば、米国は確かに帝国機能の継承者だが、その実装方式は新しい——という整理が可能になる。
6-2. 帝国衰退論と「帝国の遺産」
エドワード・ギボン『ローマ帝国衰亡史』(1776-1789年)以降、帝国の衰退原因をめぐる理論的探究は連綿と続いてきた。ギボンはキリスト教の影響と内部退廃を、トインビーは「創造的少数」の堕落を強調した。ポール・ケネディ(Kennedy 1987)は帝国過剰拡張(imperial overstretch)——軍事的義務が経済基盤を凌駕すると衰退する——という命題を立てた。これらはそれぞれに洞察を含むが、いずれも単一原因モデルの限界を抱えている。Walter Scheidel (Escape from Rome, 2019) はむしろ「なぜローマ後の欧州は再統一を経験しなかったか」という反対側の問いを立て、ヨーロッパの分立がかえって近代の経済発展を可能にしたと論じる。
また、19世紀から20世紀前半の帝国による領土区分は、現代の国境線として固定化された。サイクス・ピコ協定(1916年)、ベルリン会議(1884-1885年)は、現地の民族・宗教分布を考慮せずに線を引いた。その帰結として、中東のクルド人問題、ルワンダのフツ・ツチ対立、ナイジェリアの地域対立など、帝国期に線引きされた境界の中で現代も続く紛争がある。帝国が解体しても、帝国の制度設計の痕跡は地政学的構造として残り続ける。近年の歴史学では、19世紀英国の自由主義者(ミルら)が「文明化されていない人々」への植民地支配を自由主義原理と両立させようとしたリベラル帝国主義(liberal imperialism)(Mehta 1999, Pitts 2005)の問題も、現代の「民主主義の輸出」「人道的介入」論議に直接連なる論点として活発に議論されている。普遍主義の名のもとに行われる支配が孕む矛盾は、ローマからアメリカに至るまで連続的に現れる。
7. まとめ——現代への視座
帝国統治の進化史は、広域多様性の統治という普遍問題への、技術と制度による回答の系譜として読むことができる。アッシリアの州制度と強制移住、ペルシアの駅伝と寛容、ローマの法と市民権、中華の官僚制と科挙、モンゴルの薄い統合層、オスマンのミッレト、英帝国の間接統治、米国の制度的覇権——これらは時代と環境に応じた具体的解法だが、その背後には情報・忠誠・正統性という三つの共通問題が一貫して走っている。
ここで一点、慎重に強調しておきたい。これらの解法は単純に「累積」してきたわけではない。新しい解法が古い解法を置き換えた、というよりも、新しいレパートリーが付け加わり、状況に応じて旧来の解法も呼び戻されたと読む方が実態に近い。20世紀の同化主義的植民地政策はある意味でアッシリア的解法の再来であったし、現代の経済制裁はローマ的「帝国境界における財の遮断」を技術更新したものとも見える。歴史は階段状の進歩ではなく、レパートリーの累積と再構成として進む。
この視点から、現代秩序に向けてのいくつかの示唆を引き出せる。
第一に、近代国民国家は歴史的に例外的形態である。多民族・多宗教・多言語の地域を、単一の国民概念で統治しようとすることは、歴史的にはむしろ難題である。バルカン半島、コーカサス、中東、サブサハラ・アフリカで国民国家化が困難なのは、地域の特殊事情というより、国民国家モデルそのものが帝国型の差異制度化と相容れないことの帰結である。オスマン型の解法を経験した地域に、それと両立しないモデルを持ち込んだ歴史的経緯を見ない限り、現代の紛争の構造は理解しにくい。
第二に、現代の多国間制度は帝国統治技術の継承形態である。WTOの紛争解決手続きは古代の万民法の遠い末裔であり、SWIFTの国際送金システムは通貨基軸性という古代以来の帝国技術の現代版である。「ルールに基づく国際秩序」とは、ある意味で「帝国を持たない世界に、帝国機能を分散実装する」試みであり、その成否を見極めるにも帝国史の文脈が役に立つ。
第三に、EUは意図的に帝国にならない帝国である。Jan Zielonka (Europe as Empire, 2006) が論じたように、EUは中心-周辺構造、規制権限の重層性、加盟国の半自律性など、構造的には新中世的(neo-medieval)な帝国の特徴を持つ。だがEUは自らを帝国と呼ばず、市民権の付与も加盟国国籍を介する間接的なものに留めている。これは「帝国機能を、帝国としての正統性問題を引き受けずに運営する」洗練された試みである。
第四に、中国の対外姿勢は冊封体制の現代版なのか、別物なのか。「一帯一路」を冊封体制の現代版と見るか、近代的な勢力圏政治の延長と見るかで、対中政策の前提が大きく変わる。歴史的連続性と断絶の双方を冷静に検討する必要がある(濱下 1997、王 2014ほか)。安易な「冊封の復活」論も、逆に「全く新しい現象」論も、いずれも実態の半分しか捉えない。
帝国の時代は終わったとよく言われる。だが、広域多様性の統治という問題は終わっていない。終わったのは「帝国」という名称であって、帝国が解いてきた問題は形を変えて現代に持ち越されている。バビロンの粘土板から米軍の衛星通信網に至るまで、人類は「自分たちの直接的視野を超えた領域をどう統治するか」という同じ問題を解き続けてきた。その変奏曲のなかに私たちもいる。この歴史を読むことの価値は、現在の見方を変えるだけでなく、これから何が問題として浮上してくるかの予測精度を上げてくれることにある。
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