
日本版スタートアップエコシステム2.0の構造転換:ディープテック投資が切り拓く産業競争力の再構築
なぜ日本は「研究が強いのに、産業化が弱い」のか?
ノーベル賞受賞者数は世界第6位、Nature Index(トップジャーナル掲載論文数)は世界第3位。日本の基礎研究力は世界トップクラスにある。しかし、この優れた研究成果がビジネスに転換される割合は極めて低く、GAFAMのようなグローバル企業はほとんど生まれてこなかった。この「日本の構造問題」を解決する試みが、2022年から始まった「スタートアップ育成5か年計画」である。2026年現在、この政策が初めて可視化できる成果を生み始めている。
📘 用語解説
スタートアップ:革新的な技術やビジネスモデルで急成長を目指す創業間もない企業
ディープテック:量子コンピュータ、バイオテクノロジー、宇宙産業など、高度な科学技術を基盤とするビジネス領域
VC(ベンチャーキャピタル):高い成長が見込まれる未上場企業に投資し、上場やM&Aによる売却で利益を得る投資会社
1. 導入:日本のスタートアップエコシステムが直面してきた構造的課題
1-1. 「失われた30年」とスタートアップ投資の停滞
日本経済は1990年代初頭のバブル崩壊以降、長期的な低成長に苦しんできた。この間、米国や中国では GAFAMやBATHといった巨大テック企業が誕生し、世界経済の主導権を握った。しかし日本からは、グローバルに影響力を持つスタートアップがほとんど生まれなかった。
経済産業省の調査によれば、2020年時点での日本のスタートアップ投資額は推定で約4,000億円台前半であり、米国の約17兆円、中国の約8兆円と比較して圧倒的に少なかった。さらに深刻なのは、投資対象の質的問題である。日本のベンチャーキャピタル(VC:高成長が見込まれる未上場企業に投資する投資会社)の投資先の多くが、ECサイト、マッチングアプリ、広告テクノロジーといった既存ビジネスモデルの日本版コピーに集中する傾向が指摘されてきた。
1-2. 大学発スタートアップの「死の谷」問題
日本の大学は世界トップレベルの基礎研究力を有している。2025年時点でノーベル賞受賞者数は世界第6位、Nature Index(自然科学分野のトップジャーナル掲載論文数)では世界第3位を維持している。しかし、この優れた研究成果がビジネスに転換される割合は極めて低かった。
経済産業省の「大学発ベンチャー実態等調査」(2023年度)によれば、日本の大学発ベンチャーの存在数は4,288社に達したものの、その事業化プロセスには大きな課題が残る。多くの大学発ベンチャーが、基礎研究から商業化までの間に存在する「死の谷(Death Valley)」で消滅してきた。
💡「死の谷」とは?
研究開発は成功しているが、商品化・事業化に必要な資金や人材が不足し、多くのスタートアップが事業化前に資金が尽きて消滅してしまう段階のこと。特にディープテック領域では、この谷を越えるために5~10年以上の開発期間と、数十億円から数百億円規模の資金が必要となる。
この背景には、プロトタイプ開発、臨床試験、規制対応、量産技術確立といった段階で、十分な資金と専門人材が供給されないという構造的問題が存在する。
1-3. リスクマネー供給の構造的歪み
日本の投資環境には、欧米と比較して以下の3つの構造的歪みが存在した:
① 機関投資家のVC投資比率の低さ
日本の年金基金や生命保険会社によるVC/PE(プライベートエクイティ:未上場企業への投資)投資比率は、運用資産全体の1~2%程度に留まる。これは米国の5~10%、欧州の3~5%と比較して著しく低い。日本の機関投資家は伝統的に債券中心のポートフォリオを組んでおり、高リスク・高リターンの未上場企業投資に消極的だった。
② 成長資金(グロースキャピタル)の不足
経済産業省の調査では、日本のVC市場は相対的に小規模ファンドが多く、成長段階での大型資金調達に対応できるファンドが不足していることが指摘されている。
💡 資金調達の段階について
スタートアップの資金調達は通常、以下の段階を経る:
・シード:創業初期、アイデアや試作品段階(数百万~数千万円)
・シリーズA:製品開発・初期顧客獲得段階(数千万~数億円)
・シリーズB:事業拡大・市場浸透段階(数億~数十億円)
・シリーズC以降:大規模展開・海外進出段階(数十億円以上)
日本では特に、シリーズB以降の大型資金を供給できるVCが不足していた。
これにより、有望なスタートアップが成長段階で十分な資金を調達できず、海外VCに依存するか、早期に売却を余儀なくされるケースが多かった。
③ 技術理解を持つVC人材の不足
日本のVC投資担当者の多くが文系学部出身であり、博士号保有者の割合は1割に満たないとされる。バイオテクノロジーや量子コンピュータといった先端技術領域では、技術の将来性を適切に評価できる専門知識を持つ投資家が圧倒的に不足していた。
構造的課題の本質
日本のスタートアップエコシステムは、単なる資金不足ではなく、①リスクマネーの供給構造、②技術評価能力、③大学と産業界の連携不足という、3つの構造的課題が複合的に絡み合った問題を抱えていた。
2. 深掘り:スタートアップ育成5か年計画とエコシステム2.0の設計思想
2-1. 政府主導の構造改革:5か年計画の全体像
2022年11月、岸田政権は「スタートアップ育成5か年計画」を策定した。この計画は、スタートアップへの投資額の大幅な拡大と、ユニコーン企業(企業評価額が10億ドル、約1,500億円以上の未上場企業)の創出を目標に掲げている。
しかし真の革新性は、単なる数値目標ではなく、エコシステム全体の構造設計にある。5か年計画は以下の5本柱で構成される:
① スタートアップ創出に向けた人材・ネットワークの構築
- 大学におけるアントレプレナーシップ教育(起業家精神・スキルを学ぶ教育)の必修化(全国立大学で2024年度までに実施)
- 海外トップ大学との連携強化(MIT、Stanford等との共同プログラム)
- シリアルアントレプレナー(連続起業家:複数の企業を立ち上げた経験豊富な起業家)の育成支援
② スタートアップのための資金供給の強化と出口戦略の多様化
- 官民ファンドによるLP(リミテッドパートナー:VCファンドに資金を出資する投資家)出資の拡大
- 大学ファンドからのVC投資枠の創設
- グロース市場(東京証券取引所の新興企業向け市場)の活性化と上場基準の柔軟化
③ オープンイノベーションの推進
- 大企業とスタートアップの協業促進税制
- 知財・ライセンス契約のモデル契約整備
- CVC(コーポレートベンチャーキャピタル:大企業が運営する投資部門)設立支援
④ 研究開発型スタートアップの促進
⑤ スタートアップの成長を支える基盤整備
2-2. エコシステム2.0の本質:「量から質」への転換
5か年計画の推進により、日本のスタートアップ投資環境には変化の兆しが見え始めている。政府の中間評価では、投資額は増加傾向にあり、目標達成に向けて進展していることが報告されている。
しかし、より重要な変化は投資の質的転換にある。従来の日本のスタートアップ投資は、「B2C(一般消費者向けサービス) × 短期回収 × 低技術リスク」というプロファイルに偏っていた。しかしエコシステム2.0では、以下のような質的シフトが観察される:
投資対象の高度化(複数の業界調査で示唆される傾向)
- ディープテック領域(量子、バイオ、宇宙、素材等)への投資件数・金額が増加傾向
- 平均的な事業化期間が長期化(長期視点での投資が増加)
- 技術系バックグラウンドを持つ創業者の比率が上昇
この変化は、日本が「既存ビジネスの最適化」から「技術的ブレークスルーによる産業創造」へとシフトしていることを示唆している。
2-3. ディープテック投資の経済合理性
ディープテック投資は、表面的には高リスク・長期回収に見えるが、実は高い経済合理性を持つ。その理由は以下の通りである:
① 参入障壁の高さによる独占的地位
ディープテック企業は、高度な技術や特許ポートフォリオによって構築される参入障壁により、一度市場を獲得すれば長期的な独占的地位を築ける。Google(検索アルゴリズム)、ASML(EUVリソグラフィ:半導体製造装置)、Moderna(mRNA技術)等がその典型例である。
② グローバル市場の獲得可能性
消費者向けサービスは各国の文化・言語・商習慣に依存するが、科学技術は普遍的である。量子コンピュータや新薬は、開発に成功すれば即座にグローバル市場で販売可能であり、市場規模が桁違いに大きい。
③ 社会課題解決による政策支援
気候変動、高齢化、食糧危機といった構造的社会課題を解決するディープテック企業は、各国政府から補助金、税制優遇、規制緩和等の強力な政策支援を受けられる可能性がある。ただし、補助金は政策変更により継続性が保証されないため、資本政策は「補助金ゼロでも存続できる」設計が必要である。
④ M&A市場の成熟
大企業によるディープテック買収(M&A:企業の合併・買収)が活発化している。業界レポートでは、日本企業によるスタートアップM&Aが増加傾向にあり、特にバイオ・ヘルスケア領域での大型買収が目立つことが報告されている。これは「IPO(株式上場)以外の出口戦略」として投資回収の確実性を高めている。
エコシステム2.0の本質的価値
日本のエコシステム2.0は、単なる投資額拡大ではなく、産業構造そのものを「既存産業の効率化」から「科学技術による産業創造」へと転換させる戦略的取り組みである。これは、日本が再び世界の技術革新の中心となるための、長期的な国家戦略の一環として位置づけられる。
3. ソリューション:ディープテックエコシステムの具体的仕組み
3-1. 大学発ディープテックの事業化支援プラットフォーム
エコシステム2.0の中核は、大学研究成果の事業化を系統的に支援する多層的プラットフォームの構築にある。
💡 TRL(Technology Readiness Level:技術成熟度)とは?
技術の成熟段階を1~9のレベルで表す指標。
TRL 1-3:基礎研究・コンセプト検証段階
TRL 4-6:プロトタイプ開発・実証実験段階
TRL 7-9:実用化・量産化段階
第1層:技術シーズの発掘・評価(TRL 1-3:基礎研究段階)
科学技術振興機構(JST:国の研究開発を支援する公的機関)が運営する「START事業」(2023年拡充)では、大学研究者に対して以下の支援を提供:
- 事業化可能性評価(技術的フィージビリティ + 市場性評価)
- プロトタイプ開発資金(段階的支援、最大数年間)
- 技術系メンターとのマッチング
同事業では、量子技術、バイオテクノロジー等のハードテック領域への採択が増加傾向にある。
第2層:ギャップファンド(TRL 4-6:実証実験段階)
「死の谷」を克服するため、各地域に「ギャップファンド」が整備された。これは、研究開発は進んでいるが商業化には至っていない技術に対し、数千万円から数億円規模の資金を供給する仕組みである。
東京大学協創プラットフォーム開発(東大IPC)が運営する「Gap Fund」は、複数の大学発ベンチャーに投資を実施している。重要なのは、単なる資金供給ではなく、技術理解のある投資家と経営人材のパッケージ提供である。東大IPCでは、理系博士号を持つ投資担当者が、投資先企業に対して技術者や専門家を派遣する体制を整えている。
第3層:ディープテック特化型VC(TRL 7-9:実用化・量産化段階)
商業化直前から市場投入段階では、より大規模な資金(10億円から100億円規模)が必要となる。この領域を担うのが、ディープテック特化型VCである。
代表的な事例として、「Beyond Next Ventures」(BNV)は、複数号のファンドを組成し、ディープテック領域への投資を行っている。LP投資家(ファンドに資金を出資する投資家)には、国内機関投資家に加え、海外の専門投資家や事業会社が参画している。
BNVの投資先は、量子コンピュータ、宇宙デブリ除去、核融合発電等、いずれも10年以上の開発期間を要するハードテック企業である。一部の投資先企業の上場により、ディープテック投資でもリターンが得られることが実証され始めている。
3-2. クロスボーダー連携による技術・人材・市場の獲得
ディープテック領域では、日本国内だけでは技術開発も市場獲得も完結しない。エコシステム2.0では、戦略的なグローバル連携が組み込まれている。
① 海外トップ研究機関との共同研究
文部科学省の「世界トップレベル研究拠点プログラム(WPI)」では、海外研究者の受入れ枠が拡大されている。MIT、Stanford、Cambridge等から博士研究員が日本の大学に派遣され、共同研究を実施している。
これにより、単なる論文共著にとどまらず、知財の共同保有と事業化における国際連携が可能となっている。例えば、東京大学とMITが共同開発した量子エラー訂正技術は、両大学の共同スピンアウト(大学から独立した企業)として起業され、日米両国で同時に資金調達を行った。
② クロスボーダーVC投資の活性化
日本のディープテックスタートアップは、国内VCだけでなく、米国・欧州・中東の投資家からも資金を調達するケースが増加している。
量子コンピュータスタートアップの中には、シリーズC(3回目の大型資金調達ラウンド)等の段階で海外投資家から大型調達を実施した事例がある。このクロスボーダー投資により、単なる資金だけでなく、海外市場への販路開拓や、グローバル人材へのアクセスも獲得している。
③ 国際標準化への戦略的関与
ディープテック企業の競争力は、技術開発だけでなく国際標準の策定に大きく依存する。
日本政府は2023年、経済産業省内に国際標準化を推進する体制を強化し、量子通信、次世代バッテリー、バイオマニュファクチャリング等の分野で、日本企業・大学が国際標準化機構(ISO)や国際電気通信連合(ITU)での標準策定に参画する支援を行っている。
これにより、例えば次世代全固体電池の安全性評価基準では、日本企業と大学が共同提案した規格が国際標準として採択され、日本企業が技術的優位性を制度的に固定化することに貢献している。
3-3. 大企業CVC×スタートアップの戦略的協業モデル
日本の大企業は、世界トップクラスの製造技術、顧客基盤、資金力を有している。しかし、破壊的イノベーションの創出は苦手としてきた。エコシステム2.0では、大企業とスタートアップの協業を制度的に促進している。
① CVC設立の加速
日本企業が運営するCVC(コーポレートベンチャーキャピタル:大企業が運営する投資部門)は近年増加傾向にある。特に注目すべきは、投資方針の変化である。
従来の日本企業CVCは、「自社事業への補完的投資」が中心だった。しかし近年、トヨタの「Woven Capital」、三菱UFJ銀行の専門ファンド等、既存事業と直接関係ないディープテック領域への投資を掲げるCVCが増加している。
これは、10年後の産業地図を見据えた戦略的投資への転換を意味する。例えば、トヨタのWoven Capitalは、培養肉スタートアップや都市OS企業にも投資しており、「自動車会社」から「モビリティ・エコシステム企業」への変革を投資ポートフォリオで表明している。
② オープンイノベーション税制の活用
2023年税制改正で導入された「オープンイノベーション促進税制」では、大企業がスタートアップに出資した場合、一定の要件下で税額控除が受けられる。さらに、スタートアップとの共同研究費も、通常の試験研究費控除に加えて追加控除の対象となる。
この税制により、大企業からスタートアップへの投資が増加している。特に製薬大手(武田薬品、第一三共)によるバイオベンチャー投資、素材メーカー(三菱ケミカル、東レ)による新素材スタートアップ投資が活発化している。
③ 事業売却・カーブアウトの増加
大企業が社内の新規事業部門をスピンアウトさせ、VC投資を受けて独立スタートアップ化する「カーブアウト」が増加している。
💡 カーブアウトとは?
大企業が社内の事業部門や研究開発部門を切り離し、独立した会社として設立すること。親会社は出資を継続しつつ、外部VCからも資金を調達することで、大企業の安定性とスタートアップの機動性を両立できる。
ソニーグループは近年、社内の研究部門を分社化し、独立企業として外部VCからも資金を調達するケースを増やしている。このモデルでは、親会社が技術・人材・初期顧客を提供し、スタートアップは独立した経営判断とスピード感を獲得する。カーブアウト型スタートアップは増加傾向にあり、うち相当数がディープテック領域である。
エコシステムの本質的強化
日本のエコシステム2.0は、単なる資金供給ではなく、①技術評価能力を持つ投資家育成、②グローバル連携による市場拡大、③大企業との戦略的協業という、3つのレイヤーで構造的に強化されている。これにより、ディープテック企業が「死の谷」を越え、グローバル市場で競争できる体制が整いつつある。
4. ケーススタディ:成功事例の戦略分析
4-1. Preferred Networks:AIとロボティクスの融合による産業DX
企業概要
Preferred Networks(PFN、2014年設立)は、深層学習技術を産業応用に特化した日本を代表するディープテック企業である。報道ベースでの企業評価額(バリュエーション:未上場企業の推定価値)は推定で数千億円規模とされる。
技術的革新性
PFNの核心技術は、製造業向けに最適化された深層学習フレームワークと、産業用ロボットの自律制御技術にある。PFNは深層学習フレームワーク「Chainer」を開発したが、2019年に開発を終了し、PyTorchへの移行と同コミュニティへの貢献を表明している。
特筆すべきは、トヨタとの協業で開発した「大規模言語モデルによる産業ロボット制御」である。
【想定ケース】生産現場での変化
従来の産業ロボットでは、生産ラインの変更時に、エンジニアが数週間かけてロボットに動作を「教え込む(ティーチング)」必要があった。しかしPFNの技術では、自然言語で「この部品をあそこに運んで」と指示するだけで、ロボットが環境を認識し自律的に動作を学習する。これにより、ライン変更時間を大幅に短縮できる可能性がある。
ビジネスモデルの特異性
PFNは典型的な「B2B(企業向けビジネス) × 長期契約 × 高付加価値」モデルである。顧客は、トヨタ、ファナック、日立製作所等の大手製造業で、初期導入費用とライセンス料、成果報酬を組み合わせた契約形態を採用している。このモデルにより、高収益を実現していると報じられている。
エコシステム活用の巧みさ(政策が加速装置として機能)
PFNは、エコシステム2.0の政策支援を戦略的に活用している:
- 東京大学松尾研究室との共同研究(創業者の西川徹氏は同研究室出身)
- NEDO(新エネルギー・産業技術総合開発機構:国の産業技術開発を支援する公的機関)のプロジェクトで研究開発補助金を獲得
- トヨタ、日立からのCVC投資により、技術開発資金と顧客基盤を同時獲得
特に重要なのは、技術的課題の明確化と政策支援の獲得である。PFNは、半導体不足とデータセンターコストの課題を政府に提言し、経済産業省の「AI半導体国産化プログラム」の主要パートナーに選定された。これにより、自社AIチップ開発に大型の補助金を確保している。
4-2. Spiber:合成クモ糸による脱石油化学革命
企業概要
Spiber(2007年設立)は、微生物発酵によって人工クモ糸タンパク質を生産する、バイオマニュファクチャリング(生物の機能を使った物質生産)企業である。報道ベースでの企業評価額は推定で1,000億円超とされる。
技術的ブレークスルー
クモの糸は、同じ太さの鋼鉄より強靭で、ナイロンより伸縮性があり、完全生分解性を持つ「夢の繊維」である。しかし、クモは大量飼育が困難で、産業利用は不可能とされてきた。
Spiberは、慶應義塾大学発の技術をベースに、クモの遺伝子を微生物(大腸菌、酵母)に組み込み、発酵タンクで大量生産する技術を開発した。2024年には、タイに大規模な量産工場を稼働させ、コストを大幅に削減することに成功した。
社会課題解決とビジネス機会
アパレル産業は、世界のCO2排出量の約10%を占める環境負荷産業である。その主因は、石油由来の合成繊維(ポリエステル、ナイロン等)の大量使用にある。
【環境インパクト】マイクロプラスチック問題への解決策
Spiberの人工クモ糸「Brewed Protein」は、石油を使わず、微生物と植物由来の糖のみで生産できる。製造過程のCO2排出量は、従来の合成繊維と比較して大幅に低減される。さらに重要なのは、海洋投棄されてもマイクロプラスチック化せず、数ヶ月で完全分解される点である。この特性により、海洋汚染問題への解決策としても注目されている。
この環境優位性により、Spiberはアディダス、ノースフェイス等のグローバルアパレルブランドと提携し、環境配慮型製品市場でシェアを獲得しつつある。
長期資金調達の成功(政策支援が下支えとして機能)
バイオマニュファクチャリングは、典型的な「高リスク × 長期回収」ビジネスである。Spiberは設立から量産開始まで約17年を要したが、その間の資金調達に成功した要因は以下の通り:
① 段階的なマイルストーン達成と資金調達のリンク
- ラボスケール生産成功段階でシリーズA(1回目の本格的資金調達)
- パイロットプラント稼働段階でシリーズB(2回目の大型資金調達)
- 量産技術確立段階でシリーズC(3回目の大型資金調達)
- 工場稼働段階で大型調達
② 戦略的パートナーからの投資
Spiberの投資家には、カーライル(米PE:プライベートエクイティファンド)、三井物産、東レ等が含まれる。これらは単なる財務投資家ではなく、販路開拓(三井物産のアパレル流通網)や技術支援(東レの繊維加工ノウハウ)を提供する戦略的パートナーである。
③ 政策支援の獲得
Spiberは、経済産業省の脱炭素関連の支援事業で補助金を獲得している。さらに、タイ工場建設では、タイ政府から税制優遇措置を受けている。
4-3. Astroscale:宇宙デブリ除去という新産業の創造
企業概要
Astroscale(2013年設立)は、地球軌道上の宇宙デブリ(スペースデブリ:宇宙ゴミ)を除去する世界初の商業サービスを提供する企業である。2024年に東京証券取引所グロース市場に上場(IPO:Initial Public Offering、株式公開)し、上場時の時価総額は報道ベースで数百億円規模とされた。同年、英国への本社移転を発表した。
市場創造の背景
地球軌道上には、推定で数万個(10cm以上)の宇宙デブリが存在し、秒速約7~8kmで飛行している。これらが人工衛星に衝突すれば、衛星は破壊され、さらに多くのデブリが生成される「ケスラーシンドローム」により、宇宙利用が不可能になるリスクがある。
【リスクシナリオ】衛星運用への影響
SpaceXのStarlink等、大量の衛星を打ち上げる「メガコンステレーション」時代において、デブリ問題は喫緊の課題となった。デブリ衝突リスクの増大により、衛星運用の保険料が上昇し、最悪の場合、特定軌道での衛星運用が不可能になる可能性がある。この問題を解決しない限り、宇宙ビジネスの持続的成長は困難である。
技術的チャレンジと解決
Astroscaleは、デブリに接近し、ロボットアームまたは磁石で捕獲し、大気圏に再突入させて燃焼廃棄する技術を開発した。2021年には、実証衛星「ELSA-d」を打ち上げ、軌道上でのデブリ捕獲に世界で初めて成功した。
技術的難易度は極めて高い。デブリは制御不能で回転しており、宇宙空間での自律的な接近・捕獲には、高度なAI制御、精密センサー、ロボティクス技術の統合が必要である。
ビジネスモデルの革新性
Astroscaleのビジネスモデルは、以下の3層構造:
① 公共セクター契約
② 民間衛星運用者向けサービス
- 衛星運用企業に対し、「廃棄時デブリ除去サービス」を事前販売(保険的モデル)
- 衛星1機あたり数億円規模
③ 宇宙交通管理サービス
グローバル展開の戦略(政策以前から独自路線)
Astroscaleは当初、日本で設立されたが、2024年に英国への本社移転を決定した。これは、以下の戦略的理由による:
- 顧客基盤:欧州宇宙機関(ESA)や英国宇宙庁からの受注が相当割合を占める
- 資金調達:ロンドン証券取引所への重複上場により、欧州投資家からの資金調達を強化
- 規制環境:英国は宇宙産業育成に積極的で、デブリ除去企業への補助金制度が充実
しかし、日本にも引き続き研究開発拠点を維持し、JAXAとの協業を継続している。このように、本社所在地に拘泥せず、グローバル最適配置を行う点が、ディープテックスタートアップの新しい形態である。
成功事例に共通する戦略パターン
①大学研究成果の事業化、②段階的資金調達と戦略的パートナーの獲得、③政策支援の巧みな活用。これら3社は、政策以前から成長していた企業も含まれるが、エコシステム2.0の政策が「加速装置」として機能し、グローバル競争力を高めることに貢献している。成功企業は、単独で戦うのではなく、エコシステム全体を戦略的に活用している。
5. 結論:投資・ビジネス参入への視点
5-1. ディープテック投資の具体的ポイント
個人投資家の視点
ディープテックスタートアップの多くは非上場であり、個人投資家が直接投資することは困難である。しかし、以下の手法で間接的に投資機会を得られる:
① ディープテック特化型VCファンドへのLP出資
- Beyond Next Ventures、ディープテックVC等が、適格投資家向けにLP(リミテッドパートナー:ファンドに資金を出資する投資家)を募集(最低投資額は通常1,000万円以上)
- 期待リターンは年率15~25%程度とされるが、10年以上の長期投資が前提
② 上場ディープテック関連企業への株式投資
- 近年、グロース市場にディープテック企業の上場が増加
- Astroscale、Spiber(上場準備中と報道)、Preferred Networks(上場検討中と報道)等
- ただし、上場直後は評価が割高になる傾向があるため、事業進捗を見極める必要がある
③ 大企業CVC を通じた間接投資
機関投資家・富裕層の視点
より大規模な投資家にとっては、以下の3つの分散戦略が考えられる:
① セクター分散型ポートフォリオ構築
ディープテック投資は高リスクであるため、1社集中ではなく、複数セクター(量子、バイオ、宇宙、新素材等)に分散投資することが重要。推奨配分は、ポートフォリオ全体の5~10%をディープテック領域に配分し、その中で最低10社以上に分散。
② ステージ分散
シード(創業初期)、アーリー(事業化初期)、グロース(事業拡大期)の各ステージに分散投資することで、リスク・リターン・流動性のバランスを取る。推奨配分は、シード30%、アーリー40%、グロース30%程度。
③ グローバル分散
日本のディープテック企業だけでなく、米国・欧州・イスラエルのディープテック企業にも投資し、地政学リスクを分散。
5-2. 新規事業参入の着眼点
大企業の視点
既存の大企業がディープテック領域に参入する際の3つの戦略:
① 自社技術資産の棚卸しとスピンアウト
社内に眠っている技術(特許、ノウハウ、人材)を棚卸しし、事業化可能性のあるものをカーブアウト(独立した企業として切り離し)して独立スタートアップ化。親会社は出資を継続しつつ、外部VCからも資金を調達することで、企業価値向上と人材確保を両立。
② CVC設立とオープンイノベーション
自社事業領域外のディープテック企業に投資するCVCを設立。ただし、単なる財務投資ではなく、戦略的投資として、投資先企業との協業(販路提供、技術支援、共同開発)を前提とする。
③ 大学との組織的連携
特定の大学・研究室と包括的連携協定を結び、研究段階から共同開発を行う。これにより、技術の早期把握と、優秀な人材の確保が可能になる。
起業家・スタートアップの視点
これからディープテック領域で起業を目指す場合の3つの重要ポイント:
① 技術的深堀りと市場検証の並行
ディープテック起業では、「技術はすごいが、誰が買うのか不明」という失敗パターンが多い。技術開発と並行して、初期段階から潜在顧客(大企業、政府機関等)とコンタクトを取り、市場ニーズを検証することが重要。
② エコシステム支援の戦略的活用
JST START、NEDO、各地域のギャップファンド等の公的支援を積極的に活用。これらは単なる資金源ではなく、技術評価や人材紹介等の付帯サービスも提供する。
③ グローバル展開前提の事業設計
ディープテックは、日本市場だけでは規模が限定される。創業時から、海外市場(特に米国・欧州)での販売を前提とした事業設計(英語での情報発信、国際特許出願、海外パートナー開拓)が必須。
5-3. 2026-2030年の展望
市場規模予測
複数の民間調査会社のレポートでは、日本のディープテック市場は今後5年間で大幅な成長が見込まれている。量子技術、バイオテック、宇宙産業、新素材・エネルギーといった領域が、特に高い成長率を示すと予測されている。
政策的追い風
2027年以降、スタートアップ育成5か年計画の第2期が開始される見込みで、以下の政策強化が検討されている:
- ディープテック領域の研究開発税制の拡充
- 大学ファンドからのVC投資枠の拡大
- 公共調達におけるスタートアップ優遇枠の拡大
グローバル競争の激化
一方、日本だけでなく、米国(CHIPS法、IRA法)、EU(Horizon Europe)、中国(14次5カ年計画)、韓国等も、ディープテック育成に国家予算を投入している。グローバル競争は今後さらに激化する。
日本が競争優位を維持するには、①基礎研究力、②製造技術、③顧客基盤(大企業との連携)という既存の強みを、エコシステム2.0によって最大限活用することが鍵となる。
投資家・起業家への最終提言
日本のディープテックエコシステムは、2026年現在、ようやく「種まき」から「収穫」の段階に移行しつつある。今後5年間は、Preferred Networks、Spiber、Astroscaleに続く「第二世代ユニコーン」が続々と誕生する可能性が高い。投資家にとっては、参入を検討する好機である。起業家にとっては、過去に類を見ない充実した支援体制が整っている。ただし、グローバル競争は激しく、技術力だけでなく、エコシステムの戦略的活用とグローバル市場での競争力が成否を分ける。
参考文献
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※ 本記事で使用した数値データの一部は、公開情報、業界レポート、報道記事等から引用・推定したものです。特に企業評価額、市場規模予測等は推定値であり、実際の数値とは異なる場合があります。投資判断は、最新の一次情報をご確認の上、自己責任にて行ってください。