
日本の正月文化史──年神信仰から消費社会まで、千年の変遷を読み解く
はじめに──なぜ正月はここまで特別なのか
大晦日、23時58分。リビングのテレビからは紅白歌合戦のフィナーレが流れ、台所からは年越しそばの出汁の香りが漂う。玄関には新しいしめ縄が飾られ、スマホには友人からの「良いお年を」というメッセージが次々と届く。遠くで除夜の鐘が鳴り始める──。この瞬間、日本中の何千万もの家庭で、似たような光景が繰り広げられている。
しかし、この同居している要素の出自はバラバラである。除夜の鐘は鎌倉時代の禅宗、年越しそばは江戸時代の町人文化、紅白歌合戦は戦後のマスメディア、しめ縄は古代神道、スマホのメッセージは21世紀のデジタル技術。千年以上にわたる異なる時代、異なる社会層、異なる宗教・技術が、正月という「特別な時間」の中で混在し、共存している。
現代日本において、正月は多くの企業が一斉に休業し、社会全体が「正月モード」に同期する数少ない期間である。人々は帰省し、初詣に出かけ、おせち料理を食べる。しかし多くの人にとって、正月はもはや「長い休暇」以上の意味を持たないかもしれない。門松を飾る家は都市部では激減し、年賀状は年々減少し、若い世代は除夜の鐘を聞くよりもカウントダウンイベントに参加する。正月の風習は急速に簡略化され、形骸化している。
だが、わずか100年前まで、正月は日本社会において比類なき重要性を持つ時間だった。農村では正月の準備が12月から始まり、門松を立て、若水を汲み、年神棚を設え、家族総出でおせち料理を作った。武家社会では年始の礼が厳格に定められ、江戸時代の大名は元日に将軍への拝賀のため江戸城に参内した。明治以降も、正月は「国家の祝日」として最高位に位置づけられ、天皇の新年祝賀の儀は国家儀礼の中心だった。
では、なぜ正月はこれほどまでに特別だったのか。そして、なぜ現代では多くの風習が失われつつあるのか。本稿では、日本の正月文化を歴史的・社会構造的に分析し、正月が単なる「年の始まり」ではなく、日本社会の価値観そのものを映す装置であったことを明らかにする。神道・仏教・陰陽道が交錯する宗教的背景、農耕社会における時間観念、武家社会の秩序維持、近代国家の形成、そして戦後の消費社会化──これらすべてが正月という「儀礼」に凝縮されている。
正月の起源──年神信仰と農耕社会の時間観念
年神とは何か──生命循環の守護者
日本の正月文化を理解する上で最も重要な概念が「年神(としがみ)」である。年神は、新しい年とともに各家庭を訪れ、一年の豊穣と家族の健康をもたらす神とされる。年神は「歳徳神(としとくじん)」「正月様」「恵方神」などとも呼ばれ、地域によって呼び名は異なるが、基本的な性格は共通している。年神は祖霊神の性格を持ち、各家の祖先が神格化されたものと考えられてきた。
この年神信仰は、古代日本における稲作農耕社会の時間観念と深く結びついている。稲作農耕では、春に田植えをし、夏に育て、秋に収穫し、冬に休息するという一年サイクルが生活の基本単位となる。このサイクルは単なる労働の繰り返しではなく、生命の死と再生のサイクルとして捉えられた。秋に収穫された米は、翌年の種籾となり、新たな生命を生み出す。この生命循環を守護し、更新する力が年神なのである。
民俗学者の柳田國男は、年神が「高い山から降りてくる」という信仰に注目した。これは、祖霊が山に宿り、特定の時期に里に降りてくるという山岳信仰と結びついている。正月に年神を迎えることは、単に新年を祝うことではなく、死者の世界と生者の世界を接続し、生命力を更新する儀礼だったのである。
「年」の概念──古代から中世への変遷
現代では「年」は当然のように1月1日に始まると考えられているが、この認識は歴史的には比較的新しい。古代日本では、「年」の始まりは必ずしも固定されていなかった。『日本書紀』や『古事記』には、様々な暦法が記録されており、特に農耕の開始時期である春を年の始まりとする考え方も存在した。
中国の影響を受けて、7世紀以降、日本は太陰太陽暦(旧暦)を採用した。旧暦では、1月1日(元日)が年の始まりと定められ、この日を「正月」と呼んだ。しかし、旧暦の1月1日は現在の暦では1月下旬から2月中旬に相当し、季節的には立春の頃である。つまり、正月は「冬の終わりと春の始まり」という季節の転換点に位置づけられていたのである。
この時期設定は偶然ではない。農耕社会にとって、冬至を過ぎて日が長くなり始める時期は、太陽の力が蘇る象徴的な瞬間である。中国の陰陽五行思想では、冬至が「陰の極み」であり、そこから陽の気が回復し始める。正月はこの陽気の回復と結びつけられ、宇宙的な時間の更新と人間社会の更新が同期する瞬間として位置づけられた。
神道・仏教・陰陽道の習合
日本の正月文化は、神道、仏教、陰陽道という三つの宗教的伝統が複雑に習合することで形成された。神道的要素としては、年神信仰、祖霊崇拝、清浄観念がある。門松やしめ縄は、神道の「神を迎える装置」であり、神聖な空間を区切る結界の役割を果たす。
仏教的要素としては、除夜の鐘が代表的である。108の煩悩を払うという思想は、明らかに仏教の教義に基づいている。また、正月に寺院に参詣する「初詣」も、江戸時代以降に仏教寺院への参拝として定着した(後述するが、「初詣」という言葉自体は明治期に生まれた新しい概念である)。
陰陽道の影響は、恵方や年占いに見られる。恵方とは、その年の年神がいる方角であり、陰陽道の方位学に基づいて毎年変わる。江戸時代には、恵方の方角にある神社に参詣する「恵方参り」が盛んに行われた。また、正月の様々な禁忌(元日に掃除をしてはいけない、包丁を使ってはいけない等)も、陰陽道の影響を受けている。
この三つの宗教的伝統は、理論的には矛盾することもあるが、民俗レベルでは渾然一体となって受容された。日本人にとって、正月は「神道的な年神を迎え、仏教的に煩悩を払い、陰陽道的に吉凶を占う」という多層的な儀礼空間だったのである。
正月風習の歴史的展開──個別事例の分析
門松・しめ縄──神を迎える装置の象徴性
門松は、正月に家の門や玄関に飾られる松の飾りである。一般的には、竹を斜めに切ったものを中心に、松の枝、梅の枝、南天などを配置する。この風習は、遅くとも平安時代には貴族社会で行われていたことが『源氏物語』などの文献から確認できる。
なぜ「松」なのか。この問いに答えるためには、日本における松の象徴性を理解する必要がある。松は常緑樹であり、冬でも緑を保つことから、「不変」「長寿」「神聖」の象徴とされてきた。また、「松」という言葉は「待つ」に通じ、年神を「待つ」という語呂合わせの意味も持つ。さらに、古代から松は神の依り代(よりしろ)とされ、神が降臨する際に松に宿ると信じられてきた。
門松の形態は時代とともに変化した。平安時代には、単純に松の小枝を門に立てるだけだった。室町時代になると、松に竹を組み合わせる形式が登場する。竹は成長が早く、まっすぐに伸びることから、「繁栄」「成長」の象徴とされた。江戸時代には、現在のような豪華な門松が武家屋敷で競って飾られるようになった。これは、門松が単なる宗教的装置から、社会的地位を示す装飾へと変化したことを示している。
しめ縄(注連縄)は、門松と並んで重要な正月飾りである。しめ縄は、神道における「聖と俗の境界」を示す装置であり、神域を示すために神社や神棚に張られる。正月にしめ縄を家の入口に張ることは、家を一時的に神聖な空間に変え、年神を迎える準備をすることを意味する。
しめ縄の起源は、『古事記』の天岩戸神話に遡るとされる。天照大神が岩戸に隠れた際、再び出てきた後に二度と隠れないよう、岩戸の前にしめ縄を張ったという神話である。この神話は、しめ縄が「神聖な状態を維持する」「邪悪なものを侵入させない」という機能を持つことを示している。
興味深いのは、門松やしめ縄を飾る期間が厳格に定められていることである。一般的には、12月13日の「正月事始め」から飾り始め、1月7日(または地域によっては1月15日)の「松の内」まで飾る。この期間は、年神が各家庭に滞在する期間とされる。松の内が過ぎると、門松やしめ縄は取り外され、「どんど焼き」などの火祭りで燃やされる。これは、年神を送り返す儀礼であり、正月という特別な時間が終わることを象徴する。
初日の出──太陽信仰と近代国家
初日の出を拝む風習は、現代では正月の代表的な行事の一つである。多くの日本人が、元日の早朝に山や海岸に出かけて初日の出を見る。しかし、この風習は実は比較的新しいものであり、全国的に普及したのは明治時代以降である。
初日の出信仰の背景には、古代からの太陽信仰がある。日本神話において、太陽神である天照大神は最高神とされ、天皇家の祖先神とされてきた。また、前述のように、冬至を過ぎて太陽の力が回復する時期は、宇宙的な更新の象徴だった。初日の出は、この太陽の力が「新たに生まれる瞬間」として神聖視された。
しかし、江戸時代以前には、「初日の出」を特別視する風習は一部の地域や宗教者に限られていた。例えば、修験道の行者は、元日に山頂で日の出を拝む「御来光」の行を行っていた。また、一部の農村では、元日の朝に東の方角を拝む風習があったが、これは必ずしも日の出そのものを見ることを目的としていなかった。
初日の出が全国的な風習となったのは、明治政府の国家神道政策と深く関係している。明治政府は、天皇を中心とする国家統合のために、太陽神・天照大神を国家の最高神として位置づけた。その一環として、元日の朝に皇居で行われる「四方拝」が重視され、天皇が東西南北の四方を拝して国家の安泰を祈る儀式が国民に広く知られるようになった。これは初日の出に「国家的意味づけ」を与える役割を果たした。
しかし、実際の普及を推進したのは、交通インフラの発達と商業宣伝、そして都市住民の余暇文化である。明治期の鉄道網の発達により、都市住民が元日に郊外や山に出かけることが容易になった。鉄道会社は、初日の出を見るための特別列車を運行し、積極的に誘客活動を行った。新聞や雑誌は、「初日の出を拝むことは日本人の伝統である」というイメージを流布し、観光地としての山岳地帯を宣伝した。
このようにして、初日の出は「伝統」として創出され、国家の権威付け・交通産業の誘客・メディアの情報発信・都市住民の余暇需要が複合的に作用して普及したのである。太陽信仰という宗教的基盤は存在したが、それが「全国的な風物詩」として整理され定着したのは、こうした近代的な社会システムの産物だった。
戦後、初日の出信仰は宗教的な意味合いを弱め、より世俗的な「新年の風物詩」として定着した。現在では、初日の出を見ることは、必ずしも宗教的な行為ではなく、「新しい年の始まりを感じる」「リフレッシュする」といった個人的な体験として捉えられている。
おせち料理──保存食から祝い肴へ
おせち料理は、正月に食べる特別な料理であり、重箱に詰められた様々な品目から構成される。黒豆、数の子、田作り(ごまめ)、昆布巻き、伊達巻、栗きんとん、紅白なます等、地域によって内容は異なるが、共通しているのは各料理に縁起の良い意味が込められていることである。
「おせち」という言葉は、もともと「お節供(おせちく)」の略である。節供とは、季節の変わり目に神に供える食べ物を意味し、正月以外にも、桃の節句(3月3日)、端午の節句(5月5日)などの五節句すべてに節供料理が存在した。しかし、現在では「おせち」といえば正月料理を指すのが一般的である。
おせち料理の起源は、平安時代の宮廷儀礼にまで遡る。宮廷では、正月に「御節供」として特別な料理が供された。しかし、この時期の料理は現在のおせちとは大きく異なり、主に餅や魚介類の干物が中心だった。
現在のようなおせち料理が成立したのは、江戸時代である。江戸時代には、都市部の商人や武士階級の間で、正月に豪華な料理を用意することが流行した。この背景には、江戸時代の経済発展と食文化の成熟がある。江戸は人口100万を超える巨大都市であり、全国から様々な食材が集まった。おせち料理は、この豊かな食材を使って作られる「見せる料理」として発展した。
おせち料理のもう一つの重要な特徴は、保存食としての性格である。正月の三が日は、家事を休むという風習があり、特に煮炊きを避けることが多かった。これは、かまどの神である荒神を休ませるという宗教的理由と、主婦を家事から解放するという実用的理由の両方があった。おせち料理は、事前に大量に作っておき、正月の間に少しずつ食べることができるよう、日持ちする調理法が工夫された。
各料理の象徴性も興味深い。黒豆は「まめ(勤勉)に働けるように」、数の子は「子孫繁栄」、田作りは「五穀豊穣」、昆布巻きは「よろこぶ」の語呂合わせ、といった具合である。これらの意味づけは、必ずしも古代から伝わるものではなく、江戸時代から明治時代にかけて、民衆の間で「縁起担ぎ」として創出された面が大きい。
戦後、おせち料理は大きく変化した。冷蔵庫の普及により、保存食としての必要性は低下した。また、核家族化により、大量のおせちを作る必要もなくなった。その結果、1980年代以降、百貨店やスーパーマーケットで「既製品のおせち」が販売されるようになった。現在では、家庭でおせちをすべて手作りする家庭は少数派であり、多くの家庭は購入したおせちか、一部だけ手作りしたおせちを食べている。
年賀状──直接訪問から郵便制度へ
年賀状は、新年の挨拶を書面で行う風習である。現代の日本では、毎年数十億枚の年賀状が交わされる(ピーク時の2003年には44.6億枚)。しかし、この風習も歴史的には比較的新しく、郵便制度の発達と密接に関係している。
江戸時代以前、正月の挨拶は「年始回り」として、直接訪問することが基本だった。武家社会では、家臣が主君の屋敷を訪れて新年の挨拶をすることが義務づけられていた。町人社会でも、得意先や親戚を訪問して挨拶をすることが習慣だった。しかし、すべての人を訪問することは物理的に不可能であり、特に遠方の人への挨拶は困難だった。
この問題を解決したのが、「名刺を置いていく」という方法である。訪問先が不在の場合や、直接会う必要がない場合、自分の名刺を置いていくことで挨拶の代わりとした。この風習が、後の年賀状につながる。
明治4年(1871年)、日本で近代的な郵便制度が開始された。これにより、遠方の人にも容易に書状を送ることができるようになった。最初は通常の書状で年賀の挨拶をしていたが、明治40年(1907年)、郵便局が「年賀郵便特別取扱」を開始した。これは、年賀状を12月中に投函すると、元日に配達するというサービスである。
このサービスは大いに人気を博し、年賀状の習慣は急速に普及した。昭和24年(1949年)には、お年玉付き年賀はがきが発売され、さらに人気が高まった。年賀状は、近代郵便制度という技術革新と、伝統的な正月の挨拶文化が融合して生まれた「新しい伝統」なのである。
年賀状の内容も時代とともに変化した。戦前は、格式ばった定型文が主流だった。戦後、特に高度経済成長期以降、家族の写真を入れた年賀状や、手書きのメッセージを添えた年賀状が増えた。これは、年賀状が単なる儀礼的な挨拶から、個人的なコミュニケーションツールへと変化したことを示している。
しかし、21世紀に入り、年賀状の枚数は減少傾向にある。2020年には約20億枚と、ピーク時の半分以下になった。この背景には、電子メール、SNS、メッセージアプリの普及がある。特に若い世代は、年賀状ではなくLINEやInstagramで新年の挨拶をすることが一般的になっている。年賀状という風習は、通信技術の発展とともに生まれ、そして新たな通信技術によって衰退しつつあるのである。
除夜の鐘──仏教儀礼と神仏分離
除夜の鐘は、大晦日の深夜、寺院で108回鐘を撞く仏教儀礼である。「除夜」とは「年を除く夜」、つまり旧年を送り新年を迎える夜を意味する。108という数字は、仏教における煩悩の数を象徴する。人間には108の煩悩があり、それらを一つずつ払うために108回鐘を撞く、というのが一般的な説明である。
この風習の起源は、中国の禅宗寺院にあるとされる。中国では、宋代(10世紀以降)に、除夜に鐘を撞く習慣が始まった。日本には鎌倉時代に禅宗とともに伝わり、主に禅宗寺院で行われるようになった。室町時代から江戸時代にかけて、禅宗以外の寺院にも広がり、一般化した。
興味深いのは、除夜の鐘が仏教儀礼でありながら、正月という神道的な行事と共存している点である。これは、日本における神仏習合の伝統を示している。江戸時代以前、多くの日本人にとって、神社と寺院の区別は曖昧であり、正月に神社にも寺院にも参詣することは自然なことだった。
しかし、明治政府の神仏分離令(1868年)により、状況は大きく変わった。神仏分離令は、神道と仏教を明確に区別し、神社から仏教的要素を排除することを命じた。この政策は、廃仏毀釈運動を引き起こし、多くの寺院や仏像が破壊された。
除夜の鐘は、仏教儀礼であるため、原理的には神道を国教とする明治国家の正月観念と矛盾する。しかし、実際には除夜の鐘は禁止されず、むしろ「日本の伝統」として保護された。これは、除夜の鐘がすでに民衆の生活に深く根付いており、禁止することが現実的ではなかったことを示している。
戦後、除夜の鐘はNHKのラジオ放送で全国に中継されるようになった。1927年に始まったラジオ番組「除夜の鐘」は、その後リレー形式の中継へと発展した。この放送は、除夜の鐘を全国一律の「国民的年越し」として定着させる決定的な役割を果たした。それまで各地の寺院で個別に行われていた儀礼が、ラジオという新しいメディアを通じて、全国民が同時に体験する共有儀礼へと変容したのである。現在では、多くの人々がテレビの紅白歌合戦を見た後、除夜の鐘の音を聞きながら年を越すというのが、正月の定番となっている。
近年、除夜の鐘に対する騒音苦情が問題となっている。都市部では、夜間に鐘を撞くことが近隣住民の迷惑になるとして、昼間に鐘を撞く寺院も出てきた。この問題は、伝統的な宗教儀礼と現代都市生活の摩擦を象徴している。除夜の鐘が「伝統」として守られるべきか、それとも現代社会の生活環境に適応すべきか、という問いは、正月文化全体が直面する課題でもある。
年越しそば──江戸の縁起担ぎから国民食へ
年越しそばは、大晦日に食べる蕎麦である。この風習は、江戸時代中期に江戸(東京)の町人文化の中で成立したとされる。現在では全国的に広まっているが、地域によって「大晦日そば」「つごもりそば」「年切りそば」など呼び名が異なる。
年越しそばの起源については諸説あるが、最も有力なのは、そばの「細く長い」形状が「長寿」や「家運の延命」を象徴するという説である。また、そばは切れやすいことから、「一年の災厄を断ち切る」という意味も込められているとされる。さらに、金銀細工師が金箔を集めるためにそば粉を使ったことから、「金運を集める」という縁起も付与された。
江戸時代の文献を見ると、年越しそばの記録は18世紀初頭から散見される。『江戸名所図会』(1834-36年)には、大晦日に蕎麦屋が繁盛する様子が描かれている。この時期、江戸では蕎麦が庶民の日常食として定着しており、年越しそばは「特別な日の蕎麦」として位置づけられた。
興味深いのは、年越しそばが必ずしも全国一律の風習ではなかったことである。西日本では、そばよりもうどんが主食だった地域も多く、年越しにうどんを食べる地域も存在した。また、沖縄では年越しに蕎麦を食べる習慣はなく、沖縄そば(小麦粉の麺)を食べる風習も比較的新しい。
年越しそばが全国的に普及したのは、明治以降、特に戦後である。鉄道網の発達により、江戸=東京の文化が地方に伝播した。また、テレビやラジオが「年越しそばは日本の伝統」として紹介したことも、普及を後押しした。現在では、即席麺メーカーが年末に「年越しそば」を大々的に販売しており、商業的にも定着している。
食べる時間についても変化がある。伝統的には、大晦日の夜、除夜の鐘を聞きながら食べるとされた。しかし、現代では、夕食時に食べる家庭も多い。また、一部の地域では、元日の朝に「元日そば」を食べる習慣もある。このように、年越しそばは「いつ食べるか」「何を食べるか」において地域差と個人差が大きい、柔軟性の高い風習である。
お雑煮──地域多様性が語る日本文化の重層性
お雑煮は、正月に食べる餅入りの汁物である。日本の正月料理の中で最も地域差が大きい料理であり、餅の形(角餅か丸餅か)、出汁(醤油か味噌か)、具材の組み合わせは、地域によって劇的に異なる。この多様性は、日本文化の重層性と地域性を象徴している。
お雑煮の起源は、室町時代の武家社会にあるとされる。武家では、正月に様々な食材を「雑ぜ煮」にして食べる習慣があり、これが雑煮の原型となった。当初は、餅だけでなく、野菜、魚介、鳥肉など、手に入る様々な食材を煮込んだ料理だった。
江戸時代になると、雑煮は武家だけでなく、庶民にも広がった。この過程で、地域ごとの特色が生まれた。最も顕著な違いは、関東と関西の差である。関東では角餅を焼いてから醤油ベースの澄まし汁に入れるのが一般的である。これは、江戸が武家文化の中心地であり、「敵をのす(伸す)」という縁起から、餅を四角く切って焼く習慣が広まったとされる。
一方、関西では丸餅を煮て白味噌仕立てにするのが主流である。丸い餅は「円満」を象徴し、白味噌は「祝い」の色とされた。京都の雑煮は特に精緻で、頭芋(かしらいも)、雑煮大根、金時人参など、特定の野菜を使う伝統がある。これらの野菜にもそれぞれ縁起の良い意味(「人の頭に立つ」「家が大根のように太く育つ」等)が込められている。
地域差はさらに細分化される。広島では牡蠣を入れ、香川では白味噌にあん餅を入れる「あん餅雑煮」がある。島根の出雲地方では、小豆汁に餅を入れる「小豆雑煮」が伝統的である。岩手では、くるみ雑煮(くるみだれで食べる)、新潟では鮭やイクラを入れる雑煮が特徴的である。
この多様性が生じた理由は、複数ある。第一に、江戸時代の藩制度により、地域ごとに独自の食文化が発達したことである。各藩は独立性が高く、食材の流通も限られていたため、地元で手に入る食材を使った雑煮が発展した。第二に、雑煮が「家庭料理」であり、料理書で標準化されにくかったことである。おせち料理は武家や商家の「見せる料理」として形式化されたが、雑煮は各家庭で継承される「家の味」だった。
戦後、人口移動により雑煮の地域差は徐々に曖昧になっている。都市部では、様々な地域出身者が混在するため、「折衷型の雑煮」や「簡略化された雑煮」が増えている。また、レトルトや冷凍の「雑煮セット」も販売され、伝統的な作り方を知らない世代も増えている。しかし同時に、地域の雑煮を見直す動きもある。地方自治体や観光協会が、「ご当地雑煮」をPRし、地域文化の象徴として活用している。
七草粥──中国伝来の養生習俗と日本的展開
七草粥(ななくさがゆ)は、1月7日の朝に、春の七草を入れた粥を食べる風習である。春の七草とは、芹(せり)、薺(なずな)、御形(ごぎょう)、繁縷(はこべら)、仏の座(ほとけのざ)、菘(すずな=蕪)、蘿蔔(すずしろ=大根)である。この風習は、中国の「人日(じんじつ)の節句」に由来し、平安時代に日本に伝わったとされる。
中国では、正月の最初の7日間に、それぞれ異なる動物や人間を象徴する日が当てられた。1日は鶏、2日は狗(犬)、3日は猪、4日は羊、5日は牛、6日は馬、そして7日が人の日(人日)である。人日には、七種の野菜を入れた羹(あつもの=汁物)を食べて無病息災を祈る習慣があった。
この習俗が日本に伝わったのは、平安時代である。『枕草子』や『源氏物語』にも、正月7日に若菜を摘む様子が描かれている。ただし、この時期の「若菜」は、必ずしも現在の「春の七草」と同じではなかった。平安貴族は、正月に野に出て若菜を摘み、宮中で羹を作って食べることを風雅な行事としていた。
現在の「春の七草」のリストが固定化したのは、鎌倉時代から室町時代にかけてである。この時期、「七草」を詠んだ和歌が作られ、それが定着した。最も有名なのは、「せり なずな ごぎょう はこべら ほとけのざ すずな すずしろ これぞ七草」という歌である。この歌により、七草の内容が全国的に統一された。
七草粥が庶民に広まったのは、江戸時代である。江戸幕府は、五節句を公式の祝日として定め、1月7日を「人日の節句」とした。この日に七草粥を食べることが、武家だけでなく町人にも奨励された。七草粥は、正月の豪華な食事で疲れた胃腸を休める「養生食」としても理解された。実際、七草に含まれる野菜には、ビタミンやミネラルが豊富で、消化を助ける効果がある。
興味深いのは、七草粥を作る際の「囃子歌(はやしうた)」の存在である。七草を刻む際に、「七草なずな 唐土の鳥が 日本の土地に 渡らぬ先に ストトントン」と歌いながらリズミカルに刻む習慣があった。この歌には、「唐土(中国)から悪疫を運ぶ鳥が来る前に、七草で邪気を払う」という呪術的な意味が込められている。
現代では、七草粥の風習は簡略化されている。都市部では、七草を自分で摘むことはほぼ不可能であり、スーパーマーケットで「七草セット」を購入するのが一般的である。また、若い世代を中心に、七草粥を食べない家庭も増えている。しかし、保育園や小学校では、食育の一環として七草粥を作る行事が行われることも多い。七草粥は、「伝統文化の教育装置」としての役割を新たに獲得しているとも言える。
初詣──鉄道が創出した「伝統」
初詣は、正月に神社や寺院に参拝し、新年の無事と平安を祈る行為である。現代では、正月の最も代表的な風習の一つであり、毎年数千万人が初詣に出かける。しかし、「初詣」という言葉と習慣は、実は明治時代に成立した比較的新しいものである。
江戸時代以前、正月の参詣は「恵方参り」と呼ばれていた。恵方参りとは、その年の恵方(年神がいるとされる方角)にある神社や寺院に参詣することである。恵方は陰陽道に基づいて毎年変わるため、同じ神社に毎年参詣するわけではなかった。また、恵方参りは元日に限定されず、正月の松の内(1月7日または15日まで)の間に行えばよいとされた。
「初詣」という概念が登場したのは、明治時代中期である。この背景には、鉄道網の発達と鉄道会社の誘客戦略がある。明治中期以降、都市部に私鉄が次々と開業した。これらの鉄道会社は、乗客を増やすために、沿線の神社や寺院への「初詣」を積極的に宣伝した。
特に有名なのは、成田山新勝寺への初詣である。成田山は江戸時代から歌舞伎役者などに信仰されていたが、1897年に成田鉄道(後の京成電鉄)が開通すると、鉄道会社は「初詣は成田山へ」という広告を大々的に展開した。また、川崎大師、明治神宮なども、鉄道会社と連携して初詣客を誘致した。明治神宮は1920年に創建された新しい神社だが、開業当初から鉄道会社(山手線)と連携し、短期間で初詣の名所となった。
鉄道会社の宣伝により、「初詣」は次第に「恵方に関係なく、有名な神社や寺院に参詣する」行為へと変化した。また、参詣の時期も「元日から三が日」に集中するようになった。これは、鉄道会社が「元日の初詣」を推奨したことと、企業の正月休暇が三が日に集中したことが関係している。
「初詣」という言葉が一般化したのは、大正時代以降である。新聞や雑誌が「初詣」という言葉を使い始め、1920年代には完全に定着した。興味深いのは、「初詣」が神社参拝なのか寺院参拝なのか、明確な区別がないことである。明治政府の神仏分離政策にもかかわらず、民衆レベルでは神社と寺院の区別は曖昧なままだった。初詣は、成田山や川崎大師のような寺院にも、明治神宮や伊勢神宮のような神社にも行われる。
戦後、初詣はさらに大衆化した。自動車の普及により、遠方の神社や寺院にも容易にアクセスできるようになった。また、テレビが「初詣の様子」を毎年報道することで、初詣は「国民行事」としての地位を確立した。1990年代以降は、初詣の「観光化」も進んだ。伊勢神宮、出雲大社、太宰府天満宮など、全国的に有名な神社は、初詣客を観光資源として積極的に誘致している。
現代の初詣は、必ずしも宗教的な行為とは限らない。多くの人にとって、初詣は「正月の恒例行事」「家族や友人との外出」という社会的・レジャー的な意味が強い。神社で何を祈るかも、「合格祈願」「良縁祈願」「商売繁盛」など、個人的な願い事が中心である。このように、初詣は鉄道という近代技術、企業の宣伝戦略、メディアの情報発信、そして民衆の余暇需要が複合的に作用して創出された「伝統」なのである。
廃れた正月風習──都市化と核家族化の影響
若水汲み──清浄な水で年を始める
若水汲みとは、元日の早朝、まだ誰も使っていない井戸や川から水を汲む風習である。この水は「若水」と呼ばれ、一年で最も清浄な水とされた。若水は、年神への供え物、雑煮の調理、家族の飲み水などに使われた。
この風習は、古代からの「水の聖性」という観念に基づいている。水は生命の源であり、穢れを清める力を持つとされた。元日の朝、新しい年の最初に汲まれる水は、特別な生命力を持つと考えられた。若水汲みは、単なる実用的な行為ではなく、新しい年の生命力を家に取り込む儀礼だったのである。
若水汲みは、江戸時代までは都市部でも広く行われていた。しかし、明治時代以降の水道の普及により、井戸や川から水を汲む必要がなくなった。また、都市化により、近くに井戸や川がない家庭が増えた。その結果、若水汲みの風習は急速に廃れた。現在では、一部の農村や神社でのみ、儀礼的に行われているに過ぎない。
年始回り──訪問から通信へ
前述のように、江戸時代には正月の挨拶は直接訪問することが基本だった。これを「年始回り」という。武家では、家臣が主君の屋敷を訪れることが義務であり、訪問の順序や服装、挨拶の言葉まで厳格に定められていた。町人社会でも、商家では得意先への年始回りが重要な営業活動だった。
年始回りは、単なる挨拶以上の意味を持っていた。それは、社会的な上下関係や人間関係を確認し、再構築する儀礼だった。主君と家臣、商家と得意先、親分と子分──こうした関係は、年始回りを通じて毎年更新され、強化された。
しかし、明治以降、特に戦後の高度経済成長期以降、年始回りは急速に廃れた。その理由は複数ある。第一に、郵便制度の発達により、年賀状で挨拶を済ませることが一般化した。第二に、企業社会では正月休暇が短くなり、多くの人を訪問する時間的余裕がなくなった。第三に、核家族化により、親戚との関係が疎遠になった。第四に、都市化により、近所付き合いが希薄になった。
現在でも、一部の業界(特に伝統的な産業や地方の企業)では、正月に得意先への年始回りが行われている。しかし、これはもはや少数派であり、多くの企業では年賀状やメールで済ませることが一般的である。
書初め──寺子屋から習字教室へ
書初めは、正月に初めて書をする行事である。江戸時代には、寺子屋で子供たちが一斉に書初めを行う風景が見られた。書初めには、一年の学問の上達を祈る意味があり、縁起の良い言葉(「元旦」「初春」「福」など)や、自分の目標を書くことが多かった。
書初めは、単なる習字の練習ではなく、「最初の行為が一年を決定する」という呪術的観念に基づいていた。正月に良い字を書けば、一年間良い字が書けるようになる、と信じられた。これは、「初物」を尊ぶ日本文化の一環である。
戦後、書道教育は学校教育の中で継続されたが、書初めを家庭で行う習慣は減少した。現在では、一部の小学校で書初め大会が行われているが、家庭で書初めをする子供は少数派である。この背景には、毛筆を使う機会自体が減少したこと、正月の過ごし方が多様化したことなどがある。
歳神棚──家庭内の神聖空間の消失
歳神棚(としがみだな)とは、正月に年神を迎えるために家の中に設える特別な棚である。床の間や仏壇の上などに白い布を敷き、鏡餅、橙、昆布、干し柿などを供える。地域によっては、松や榊を飾ることもあった。
歳神棚は、家を一時的に神聖な空間に変え、年神を家族の一員として迎え入れる装置だった。正月の間、家族は歳神棚の前で祈り、年神に新年の挨拶をした。これは、祖霊崇拝と深く結びついており、年神は各家の祖先神の顕現と考えられていた。
しかし、戦後の住宅事情の変化により、歳神棚を設える家庭は激減した。団地やマンションには床の間がなく、歳神棚を設ける物理的な場所がない。また、核家族化により、祖先崇拝の意識自体が希薄になった。現在では、一部の伝統的な家庭や農村でのみ、歳神棚が設えられている。
なぜ風習は廃れたのか──構造的分析
これらの風習が廃れた理由は、個別の事情だけでなく、日本社会の構造的変化に根ざしている。第一に、都市化である。農村では、正月は農作業が休止する数少ない期間であり、様々な儀礼を行う時間的余裕があった。しかし、都市の企業社会では、正月休暇は短縮され、多くの儀礼を行う時間がなくなった。
第二に、核家族化である。伝統的な日本の家族は、三世代以上が同居する拡大家族だった。この中で、正月の儀礼は年長者から若い世代へと伝承された。しかし、核家族では、若い夫婦だけで家庭を営むため、伝統的な儀礼を知らないか、行う必要性を感じないことが多い。
第三に、労働形態の変化である。農業社会では、季節のサイクルに従って労働が組織されていた。正月は、冬の農閑期であり、次の農作業に向けて準備する期間だった。しかし、工業社会・情報社会では、労働は季節とは無関係に継続される。正月も、単なる「休暇」の一つに過ぎなくなった。
第四に、宗教意識の世俗化である。伝統的な正月の風習の多くは、年神信仰という宗教的観念に基づいていた。しかし、現代の日本人の多くは、年神の存在を信じていない。風習は「伝統」として尊重されても、その背後にある宗教的意味は理解されなくなった。結果として、実践する意味を見出せなくなり、廃れていった。
新しく生まれた正月習慣──消費社会との結合
初売り・福袋──正月の商業化
初売りは、正月に行われる小売店の最初の営業であり、多くの店舗が特別なセールや福袋を販売する。福袋は、中身が見えない袋に様々な商品を詰めて、お得な価格で販売する商法である。初売りには、開店前から長い行列ができることも珍しくない。
初売りの起源は、江戸時代の「初商い」にある。商家では、正月の最初の営業日に縁起を担いで特別な販売をした。しかし、当時の初商いは現在のような大規模なセールではなく、むしろ儀礼的な性格が強かった。
現在のような初売りが定着したのは、戦後の高度経済成長期以降である。特に、1960年代から1970年代にかけて、百貨店が競って初売りセールを開催するようになった。福袋も、この時期に百貨店が考案した販売戦略である。
初売りの成功は、正月が「消費」の機会として再定義されたことを示している。伝統的には、正月は「穢れを避け、清浄を保つ」期間であり、商売や労働は避けるべきだった。しかし、消費社会では、正月は「お金を使う」機会となった。初売りは、伝統的な正月観念を逆転させた新しい風習である。
帰省ラッシュ──移動する家族
帰省ラッシュは、正月やお盆に、都市から地方へ大量の人々が移動する現象である。新幹線や高速道路は大混雑し、テレビのニュースでは必ず帰省ラッシュの様子が報道される。この現象は、戦後の日本に特有のものである。
伝統的な日本社会では、人々は生まれた場所で一生を過ごすことが多かった。正月は、家族全員が同じ家にいる状態で迎えるのが当然だった。しかし、高度経済成長期以降、多くの若者が就職のために都市に移住した。その結果、正月には実家に帰省するという新しい習慣が生まれた。
帰省ラッシュは、「家族の再統合」という正月の本質的機能が、空間的に分離された家族においても維持されようとする現象である。都市に住む人々にとって、正月は「実家に帰る」ことを通じて、自分のアイデンティティの源泉である家族や故郷とのつながりを確認する機会となっている。
しかし、近年、帰省ラッシュは減少傾向にある。これは、核家族化がさらに進み、親世代も都市に移住したこと、交通費の負担が大きいこと、正月の過ごし方が多様化したことなどが理由である。一部の若者は、正月を海外旅行やリゾート地で過ごすことを選択している。
テレビ番組──国民的共有体験
戦後の正月文化を語る上で、テレビの影響は無視できない。特に、NHKの紅白歌合戦は、大晦日の「国民的行事」となった。紅白歌合戦は1951年に始まり、当初はラジオ放送だったが、1953年にテレビ放送が開始された。高度経済成長期にテレビが普及すると、紅白歌合戦は年末の定番番組として定着した。
紅白歌合戦の成功は、テレビが「国民的共有体験」を創出する装置として機能したことを示している。全国の人々が同時に同じ番組を見ることで、一体感や連帯感が生まれる。これは、伝統的な正月の儀礼が果たしていた「共同体の再統合」という機能を、マスメディアが代替したとも言える。
正月のテレビ番組は、紅白歌合戦以外にも多数存在する。特番、駅伝中継、初笑い番組など、正月限定の番組が数多く放送される。これらの番組は、正月という「特別な時間」を演出する役割を果たしている。
しかし、21世紀に入り、テレビの影響力は相対的に低下している。インターネットやストリーミングサービスの普及により、人々は自分の好きな時間に好きなコンテンツを見るようになった。紅白歌合戦の視聴率も、1960年代には80%を超えることもあったが、2010年代後半以降は30%台まで低下している。
デジタル年賀状・SNS投稿──個人化する挨拶
前述のように、紙の年賀状は減少傾向にあるが、新年の挨拶がなくなったわけではない。それはデジタル媒体に移行している。電子メール、LINE、Facebook、Instagram、Twitterなど、様々なプラットフォームで新年の挨拶が交わされている。
デジタル年賀状の特徴は、即時性と双方向性である。紙の年賀状は、元日に一斉に届くという一方向的なコミュニケーションだったが、デジタル年賀状は、送信後すぐに相手に届き、返信も可能である。また、写真や動画、スタンプなど、多様な表現手段が利用できる。
SNS上の新年投稿は、さらに新しい性格を持っている。それは、特定の個人宛ではなく、不特定多数の「フォロワー」に向けた発信である。初日の出の写真、おせち料理の写真、初詣の様子などを投稿し、「いいね」やコメントを集める。これは、新年の挨拶が「自己表現」や「承認欲求の充足」の手段となったことを示している。
この変化は、正月文化の本質的な変容を表している。伝統的な正月は、共同体の中での自分の位置を確認し、人間関係を更新する時間だった。しかし、現代では、正月は「自分らしさ」を表現し、個人としての存在をアピールする時間となっている。
なぜ新しい風習が生まれたのか──消費社会の論理
新しい正月風習の多くは、消費社会の論理と密接に結びついている。初売りは「買い物をする」機会であり、帰省ラッシュは「交通サービスを利用する」機会であり、テレビ番組は「広告を見る」機会である。正月は、宗教的儀礼から商業的イベントへと変質した。
しかし、これを単純に「伝統の喪失」と嘆くのは適切ではない。新しい風習も、それなりに人々のニーズに応えている。初売りは「お得な買い物」という楽しみを提供し、帰省は「家族の再会」という情緒的満足を提供し、テレビは「共有体験」という一体感を提供する。
重要なのは、正月という「特別な時間」の枠組み自体は維持されていることである。内容は変わっても、正月が「普段とは違う時間」「特別なことをする時間」であるという認識は、現代でも共有されている。この認識こそが、正月文化の本質なのかもしれない。
正月文化の本質的役割──時間の区切りと社会秩序の更新
「時間をリセットする」という思想
ここまで、正月の様々な風習を歴史的に検討してきた。これらの風習は、表面的には多様であるが、共通する本質的な機能を持っている。それは、「時間をリセットし、新たに始める」という機能である。
人間社会において、時間は単なる物理的な連続ではなく、意味づけられた構造である。日常の時間は、労働と休息、平日と週末、季節のサイクルなど、様々な区切りによって組織されている。この中で、正月は最も大きな区切りである。
正月における「リセット」は、複数の次元で行われる。第一に、物理的な清掃と装飾である。年末に大掃除をし、古いものを処分し、門松やしめ縄で家を飾る。これは、物理的空間を「浄化」し、「新しく」する行為である。
第二に、社会関係の更新である。年賀状や年始回りを通じて、人間関係を確認し、再構築する。一年間疎遠だった人とも、正月の挨拶を通じて関係を維持する。これは、社会的ネットワークを「メンテナンス」する機能である。
第三に、心理的なリセットである。新年の抱負を立て、昨年の失敗を水に流し、新たな気持ちで出発する。これは、個人のアイデンティティを「更新」する機能である。
第四に、宗教的・宇宙論的な更新である。年神を迎え、初日の出を拝み、除夜の鐘で煩悩を払う。これは、人間社会と宇宙的秩序との関係を「再接続」する機能である。
日本文化における「清浄」「更新」の思想
正月の「リセット」という機能は、日本文化における「清浄」「更新」の思想と深く結びついている。神道では、「穢れ(けがれ)」を避け、「清浄(しょうじょう)」を保つことが重要視される。穢れは、単に物理的な汚れではなく、死、病気、出産など、日常的な出来事によって蓄積する宗教的な汚染である。
穢れを清めるための儀礼として、禊(みそぎ)、祓い(はらい)、大祓(おおはらえ)などがある。正月の大掃除も、この「祓い」の一種と考えることができる。一年間に蓄積した穢れを払い、清浄な状態で新年を迎える。
また、日本文化には「常若(とこわか)」という思想がある。これは、「常に新しくあること」を理想とする考え方である。伊勢神宮の式年遷宮は、この思想の典型例である。伊勢神宮では、20年ごとに社殿を建て替え、神を新しい社殿に遷す。これは、建物を物理的に更新することで、神の力を「常に若々しく」保つという思想に基づいている。
正月も、この「常若」の思想の実践である。毎年正月を迎えることで、時間を「新しく」し、社会を「若返らせる」。これは、単なる時間の経過ではなく、能動的な「更新」の行為なのである。
社会秩序の再起動装置としての正月
正月の最も重要な機能の一つは、社会秩序を再起動することである。日常生活では、様々な緊張、対立、不満が蓄積する。上司と部下、親と子、夫と妻、近隣住民など、あらゆる人間関係において摩擦が生じる。これらを放置すれば、社会は崩壊する。
正月は、これらの緊張を一旦「リセット」する機会を提供する。正月の挨拶では、過去の対立は不問に付され、新たな関係が始まる。「去年はいろいろありましたが、今年もよろしくお願いします」という挨拶は、過去を水に流し、新たな関係を構築するという社会的な約束事である。
また、正月は階層秩序を確認する機会でもある。武家社会では、家臣が主君に年始の礼を行うことで、主従関係が再確認された。現代の企業社会でも、新年会や初出勤での挨拶を通じて、組織内の上下関係や役割分担が再確認される。
この機能は、人類学で言う「通過儀礼」や「暦の儀礼」と類似している。フランスの人類学者アルノルド・ファン・ヘネップは、人生の重要な転換点(出生、成人、結婚、死)には儀礼が行われ、それによって個人の社会的地位が変化すると指摘した。正月は、個人ではなく社会全体の「通過儀礼」であり、古い年から新しい年への移行を儀礼的に管理する装置なのである。
比較文化的視点──なぜ日本の正月は特別なのか
世界の多くの文化で、新年は特別な意味を持つ。しかし、日本の正月の特徴は、祝日制度・学校休暇・企業慣行が重層的に重なり、国家・企業・家族・個人の活動が同じタイミングで切り替わりやすい点にある。言い換えれば、正月は「宗教儀礼」であると同時に、「社会の稼働スケジュールを同期させる制度」として機能してきた。
この包括性は、日本の正月が国家レベル、企業レベル、家族レベル、個人レベルのすべてで実践されることによって実現されている。国家は元日に国家儀礼を行い、企業は一斉に休業し、家族は集まり、個人は初詣に行く。このような多層的な同期は、近代日本の制度設計(祝日法、学校暦、企業の年末年始休暇慣行)によって強化されてきた。
この特徴は、日本社会における「集団との調和」という価値観と関係している。日本社会では、個人は様々な集団(家族、企業、地域社会、国家)に埋め込まれており、これらの集団との調和が重視される。正月は、これらすべての集団が同時に「リセット」される瞬間であり、社会全体の同期を取る装置として機能している。
結論──形は変わっても、なぜ正月は残るのか
伝統の選択的継承
本稿で見てきたように、日本の正月文化は千年以上の歴史を持ちながら、常に変化し続けてきた。門松やおせちは残り、若水汲みや年始回りは廃れた。除夜の鐘は維持され、初売りが新たに加わった。これは無秩序な変化ではなく、社会のニーズに応じた選択的な継承である。
残った風習には、共通する特徴がある。第一に、視覚的にインパクトがあることである。門松、初日の出、おせち料理は、いずれも視覚的に印象的であり、写真映えする。これは、SNS時代において重要な要素である。
第二に、実行が比較的容易であることである。初詣は、神社に行くだけで完了する。おせちは、買ってくることができる。年賀状も、最低限であれば少数だけ送ればよい。一方、若水汲みや年始回りは、時間と労力がかかりすぎる。
第三に、商業的な支援があることである。初売り、福袋、おせちの販売、初詣の観光化など、多くの正月風習は商業と結びついている。企業が経済的利益を見込める風習は、積極的に宣伝され、維持される。
第四に、個人化・カスタマイズが可能であることである。現代人は、画一的な伝統を押し付けられることを嫌う。初詣は、どの神社に行くか、いつ行くかを自由に選べる。おせちも、好きなものだけ食べればよい。このような柔軟性が、風習の持続を可能にしている。
正月文化の未来
では、正月文化は今後どうなるのか。確実に言えるのは、さらなる変化は不可避であるということである。デジタル技術の発展、グローバル化の進展、人口減少と高齢化、労働形態の多様化など、社会を取り巻く環境は急速に変化している。
一つの可能性は、正月の「個人化」である。すでに、正月の過ごし方は多様化している。実家に帰省する人もいれば、海外旅行に行く人もいる。初詣に行く人もいれば、家で寝ている人もいる。今後、この傾向はさらに進むだろう。正月は、社会全体で同じことをする時間ではなく、各自が自分なりの方法で「特別な時間」を過ごす期間となるかもしれない。
もう一つの可能性は、正月の「グローバル化」である。在日外国人の増加により、日本国内で正月以外の新年行事(中国の春節、イスラム暦の新年など)が行われるようになるかもしれない。また、日本の正月文化が海外に輸出され、「クールジャパン」の一部として消費される可能性もある。
しかし、どのように変化しても、正月という「特別な時間」の枠組み自体はおそらく残るだろう。なぜなら、人間は「時間に区切りをつける」ことを必要とするからである。日常と非日常、労働と休息、古いものと新しいもの──こうした二項対立によって、人間は時間を理解し、生活を組織する。正月は、この「区切り」を提供する装置として、形を変えながらも存続するだろう。
現代人が正月から再発見できるもの
最後に、現代人が正月文化から何を学べるかを考えたい。第一に、「リセット」の重要性である。現代社会は、常に前進し、成長し続けることを求める。しかし、人間には「立ち止まり、振り返り、リセットする」時間も必要である。正月は、この時間を制度的に保証する装置だった。
第二に、「共同性」の価値である。現代社会は、個人の自由と選択を重視する。しかし、完全に孤立した個人は存在しない。人間は、家族、友人、同僚、地域社会などの関係性の中で生きている。正月は、これらの関係性を確認し、更新する機会を提供する。
第三に、「儀礼」の意味である。現代人は、儀礼を形式的で意味のないものと考えがちである。しかし、儀礼は、言葉では表現できない感情や価値を表現し、共有する手段である。正月の様々な風習は、「新しい年への期待」「過去への感謝」「未来への希望」といった感情を、儀礼という形で表現している。
第四に、「伝統」の柔軟性である。正月文化の歴史は、伝統が固定的なものではなく、常に変化し、適応してきたことを示している。重要なのは、形式を守ることではなく、その背後にある価値や機能を理解し、現代に合った形で実現することである。
正月の未来は、私たち自身が作る。伝統を盲目的に守る必要はないが、その背後にある知恵を理解し、現代に合った形で再解釈することは、意味のあることだろう。正月は、日本社会の過去、現在、未来をつなぐ橋である。この橋を渡ることで、私たちは自分たちが何者であり、どこから来て、どこへ行こうとしているのかを、改めて考えることができるのである。
参考文献
柳田國男『年中行事覚書』(講談社学術文庫、1977年[原著1932年])
宮田登『正月の来た道──日本と中国の新春行事』(吉川弘文館、1988年)
新谷尚紀『伊勢神宮と出雲大社──「日本」と「天皇」の誕生』(講談社選書メチエ、2009年)
国立歴史民俗博物館編『正月の来た道──おせちからお年玉まで』(吉川弘文館、2005年)
岩井宏實『正月の来歴』(青蛙房、1998年)
新谷尚紀『年中行事を「科学」する』(日本放送出版協会、2004年)
アルノルド・ファン・ヘネップ(綾部恒雄・綾部裕子訳)『通過儀礼』(岩波書店、2012年[原著1909年])
エリック・ホブズボウム、テレンス・レンジャー編(前川啓治ほか訳)『創られた伝統』(紀伊國屋書店、1992年[原著1983年])
クロード・レヴィ=ストロース(大橋保夫訳)『野生の思考』(みすず書房、1976年[原著1962年])
井上章一『つくられた桂離宮神話』(講談社学術文庫、1986年)
菅豊『川は誰のものか──人と環境の民俗学』(吉川弘文館、2006年)
原田信男『和食とはなにか──旨みの文化をさぐる』(角川ソフィア文庫、2014年)
奥村彪生『雑煮──京都と全国』(朝日新聞出版、2011年)
平野恵『恵方詣りから初詣へ──明治期における年頭参詣の変容』(『国立歴史民俗博物館研究報告』169号、2011年)
古川隆久『皇紀・万博・オリンピック──皇室ブランドと経済発展』(中央公論新社、1998年)
郵政省編『郵政百年史』(郵政省、1971年)
NHK放送文化研究所編『NHK年鑑』各年度版
日本郵政株式会社「年賀状に関する統計データ」https://www.post.japanpost.jp/
総務省統計局「家計調査」各年度版