
意外な歴史を持つ日本の料理たち:驚きの起源と変遷
私たちが日常的に食べている料理には、実は驚くべき歴史が隠されています。「和食」だと思っていた料理が外国由来だったり、まったく予想外の経緯で生まれたものだったり。本記事では、日本で愛される30種類の料理について、その意外な起源と歴史的背景を詳しく解説します。料理の歴史を知ることで、いつもの食事がより味わい深いものになるでしょう。
1. 天ぷら:実はペルシア起源の料理
サクサクとした衣と新鮮な素材の味わいが楽しめる天ぷら。誰もが知る代表的な和食ですが、その起源は意外にも遠く中東にまで遡ります。
天ぷらの歴史は、実に1500年前の6世紀中頃のペルシアまで遡ることができます。ササン朝ペルシア帝国の王ホスロー1世が好んだ「シクバージ」という甘酸っぱい牛肉の煮込み料理が、時代とともに地中海沿岸を西へと伝わり、魚のシクバージへと変化していきました。13世紀のエジプトでは小麦粉をまぶして揚げた魚をハチミツと香辛料で味付けする調理法が確立され、これがさらに西へと伝播しました。
1500年代初めのスペインとポルトガルには「ぺスカド・フリート」という揚げた魚に酢をかけて食べる料理が存在しており、これがポルトガルのイエズス会によって1639年頃に日本に持ち込まれたのです。当時の『南蛮料理書』には、衣をつけて揚げた魚のレシピが日本語で記載されていました。
日本での天ぷらという呼称の語源については諸説ありますが、最も有力なのはポルトガル語の「tempero」(調味料)説、または「témporas」(斎日)説です。興味深いのは、ポルトガル人が揚げ物を作りながら「何をしているのか」と尋ねられ、ちょうど味付けをしていたため「テンペロ(味付けしている)」と答えたのを、日本人が揚げ物のことを指すと勘違いしたという逸話も残っています。
江戸時代前期には、天ぷらは「天ぷら屋」と呼ばれる屋台で提供される庶民の食べ物でした。揚げたてを串に刺して立ち食いするファストフードのような存在だったのです。油の生産量が増えた江戸時代中期以降、天ぷらは爆発的に普及し、蕎麦、寿司と並んで「江戸の三味」の一つとして確立されました。明治に入ると料亭や専門店が登場し、大正時代の関東大震災後には職を失った職人が各地に散らばったことで、江戸前の天ぷらが全国に広まったのです。
2. カレーライス:インドではなくイギリス経由で
日本の国民食として愛されるカレーライスですが、その伝来経路は多くの人の想像とは異なるものでした。
カレーの本来の起源はインドにあるものの、日本に伝わったのはイギリスで変化したカレーでした。1600年にイギリスが東インド会社を設立したことで、インド料理がイギリス本国へ伝わり、18世紀末にはイギリスでカレー粉が開発されました。スパイスの複雑な調合を必要とせず、カレー粉一つで味が決まるこの発明は画期的でした。
さらにイギリス人は、インドのサラサラとしたカレーにシチューの調理法を応用し、小麦粉でとろみをつけるという独自の進化を遂げさせました。このイギリス風カレーが、特に海軍の軍用食として定着したのには理由がありました。カレー粉は長期保存が可能で、航海中の食事に向いていたのです。栄養バランスが良く、調理も簡便という点も軍用食として優れていました。
日本人が初めてカレーに出会ったのは1863年(文久3年)とされています。幕府が派遣した欧州への使節がフランスの郵船に乗った際、同乗していたインド人が食べていたのがカレーライスでした。しかし当時の随行者・三宅秀清の日誌には「飯の上ヘ唐辛子細味に致し、芋のドロドロのような物をかけ、これを手にて掻きまわして手づかみで食す。至って汚なき人物の物なり」と記されており、必ずしも好印象ではなかったようです。
明治初期にイギリスからカレーが伝わると、1872年(明治5年)には『西洋料理指南』と『西洋料理通』という本でカレーライスの作り方が紹介されました。明治9年(1876年)には札幌農学校でクラーク博士の発案により、生徒たちの栄養改善のためにカレーライスが提供されました。北海道で生産されるジャガイモ、ニンジン、玉ねぎが具材として定着したのもこの頃です。
明治期に日本海軍はイギリス海軍をお手本としたため、カレーライスは海軍食として採用されました。最初はイギリス軍同様、カレー+パンという形でしたが、小麦粉でとろみをつけるとご飯と合わせやすいことが発見され、毎週金曜日の昼食はカレーライスと定着しました。これには海の上で曜日感覚をなくさないためという説もあります。この習慣は現在の海上自衛隊にも引き継がれています。軍隊でカレーライスを食べた兵士たちが家に帰って家族に伝えることで、徐々に全国に広まっていったのです。
3. ラーメン:室町時代にすでに存在していた
ラーメンといえば中国から伝来した比較的新しい料理というイメージがありますが、実は驚くほど古い記録が残っています。
一般的には水戸光圀が1697年(元禄10年)に中国から招いた儒学者・朱舜水が作った「汁そば」を食べたのが日本人初とされてきました。しかし2017年、室町時代の僧侶の日記『蔭涼軒日録』に、1488年に京都の相国寺で「経帯麺」という、かん水を使った麺類を食べたという記述が発見されたのです。このレシピは現代のラーメンの麺とほぼ同じものだと考えられています。
ただし、これらはあくまで上流階級や一部の人々が楽しむものでした。庶民が気軽にラーメンを味わえるようになったのは明治時代以降です。幕末から明治時代にかけて開港に伴い港に出現した中華街で中華料理店が開店し、大正時代頃から各地に広まっていきました。
1910年、浅草に「来々軒」が開店したのが、日本における本格的なラーメン店の始まりとされています。その後、北海道では1923年に「竹家食堂」、1925年には喜多方で「源来軒」、1937年には「南京千両」がオープンしました。
「ラーメン」という名称の由来にも諸説あります。有力な説の一つは、札幌の竹家食堂で料理人が出来上がったときに「好了(ハオラ)」(できたよ)と声を出し、その「ラ」と麺を組み合わせて「ラーメン」と呼んだというものです。また、中国語の「拉麺(ラーミェン)」(手で引き延ばす麺)に由来するという説も有力です。
第二次大戦が激化するとラーメン屋の多くはいったん閉店しましたが、戦後、中国からの引揚者によってラーメンの屋台が全国に出現しました。安価で高カロリー、栄養満点のラーメンは、戦後の食糧難の時代に人々に歓迎されました。そして1958年、日清食品が世界初のインスタントラーメン「チキンラーメン」を発売し、「ラーメン」という呼称が一般化したのです。
4. とんかつ:日露戦争の人手不足が生んだ革新
厚切りの豚肉を揚げたとんかつは、日本の洋食を代表する料理ですが、その誕生には意外な歴史的背景がありました。
とんかつの起源はフランス料理の「côtelette」(コートレット)にあります。コートレットとは、薄切りにした仔牛肉に細かいパン粉をまぶし、バターを敷いたフライパンで香ばしく焼き上げた料理のことです。これがイギリスを経由して日本に「カツレツ」として伝わりました。
1895年(明治28年)、東京・銀座に開店した洋食レストラン「煉瓦亭」の創業者・木田元次郎が、コートレットを日本人向けにアレンジしました。バターで焼く調理法は「日本人には脂っこくて胃に重い」と感じた木田は、当時屋台で人気だった天ぷらの調理法にヒントを得ました。つまり、大量の油で揚げるという方法です。
さらに重要な変化が1904年頃に起こりました。日露戦争で見習いコックが徴兵されて人手が足りなくなったため、何枚も同時に揚げて調理の効率化を図る必要があったのです。また、付け合わせも手がかからないものが必要でした。そこで選ばれたのが、当時北海道で本格的な生産が始まったばかりの新野菜、キャベツの千切りだったのです。生キャベツを添える習慣は、当時日本人にとって非常に珍しいものでした。
1920年代に入ると、さらなる革新が起こりました。1921年、新宿の「王ろじ」が厚切りのロース肉を揚げ、食べやすく切り分けた「とんかつ」を売り出したとされています。また1929年(昭和4年)には上野の「ポンチ軒」で、宮内庁の大膳部にいた島田信二郎が、箸で食べられるよう厚さ2.5~3センチに改良し、あらかじめ食べやすい大きさに切って提供する現代のスタイルを確立しました。この時、味噌汁と白米を一緒に提供する定食スタイルも生まれたのです。
興味深いことに、カツ丼やカツカレーは、とんかつが完成する前にすでに考案されていました。忙しい魚河岸の人々や学生たちが、手軽に食べられる丼物として愛したのです。
5. 寿司:ご飯は捨てていた保存食だった
寿司といえば新鮮な魚と酢飯の組み合わせを思い浮かべますが、その起源は全く異なるものでした。
寿司の起源は、紀元前4世紀頃の東南アジアの山地民族が魚を長期保存するために考案した「熟鮓(なれずし)」にあります。魚を塩漬けにし、米飯の中で発酵させる方法で、現在の滋賀県の鮒寿司がその名残です。この技術が中国を経由して奈良時代(8世紀頃)に日本に伝わりました。
重要なのは、当時の「なれずし」では、米は魚を発酵させるための媒体に過ぎず、食べずに捨てられていたという点です。発酵期間は数ヶ月から数年にもおよび、完全に発酵した魚だけを取り出して食べていました。『枕草子』にも記述がある通り、平安時代には貴族の食文化として定着していましたが、あくまで魚の保存が目的だったのです。
室町時代になると、発酵期間を短縮した「なまなれ」が登場しました。発酵を浅めで止めるため、ご飯も一緒に食べられるようになったのです。これにより寿司は「保存食」から「ご飯を使った料理」へと変化しました。また、寿司桶に魚とご飯を交互に漬けて重石をする、現在の押し寿司の原型も生まれました。
江戸時代に入ると、米酢の製造技術が向上し庶民の間でも酢が手に入るようになりました。1600年代から酢を用いた例が散見されるようになり、発酵を待たずに酢で酸味を調節する「早ずし」が誕生しました。1802年刊の『名飯部類』では「寿司は昔は発酵させるものだったが、今では酢を使うものばかりである」と解説されています。
江戸時代後期の1820年代後半、江戸で華屋与兵衛が「握り寿司」を考案しました。当時江戸は人口100万人を超える世界有数の大都市で、人々は忙しく働き、手軽に食事を済ませたいというニーズが高まっていました。握り寿司は当初おにぎり並みの大きさで、切り分けて食べていました。現在2貫で1皿とするスタイルは、その名残なのです。冷蔵・冷凍技術がなかった当時は、魚は酢締め、醤油漬け、火を通すなどの「仕事」を施したネタがほとんどでした。これが江戸前寿司の伝統の原点となっています。
6. オムライス:胃の弱い常連客への優しさから
ふわとろの卵でケチャップライスを包んだオムライスは、完全に日本発祥の料理です。
オムライスの原型は、1900年頃に東京・銀座の「煉瓦亭」で生まれました。当時、厨房のまかない料理として、溶き卵にご飯を混ぜて焼く「ライスオムレツ」が作られていました。立ったまま食べることができ、忙しい時に便利だったこの料理を、偶然見かけた客が「それを食べたい」とオーダーしたことがきっかけでメニュー化されたのです。
しかし、現在一般的な「薄焼き卵でケチャップライスを包む」スタイルが生まれたのは、それから約20年後のことでした。1922年(大正11年)、大阪の汐見橋で北橋茂男が「パンヤの食堂」(後の「北極星」)を開業しました。
1925年(大正14年)のある日、当時20代半ばだった茂男は、常連客の小高さんのことが気になっていました。小高さんは胃の具合が悪く、いつもオムレツと白ごはんばかりを注文していたのです。「くる日もくる日も同じものではかわいそうだ」と思った茂男は、ケチャップライスを薄焼き卵で包んだ特製料理を作って出しました。
小高さんは「おいしいやん!なんやこれ?」と大変気に入り、茂男はとっさに「オムレツとライスを合わせてオムライスでんな」と答えました。これが「オムライス」誕生の瞬間だったのです。この料理はあっという間に人気メニューとなり、お店にはオムライスを食べたいという客が殺到しました。
オムライスという名前は、フランス語の「オムレット(omelette)」と英語の「ライス(rice)」を合わせた和製語です。日本で生まれたオムライスは、その後「オムそば」「オムチャーハン」「オムハヤシ」など様々なバリエーションを生み、海外でも日本スタイルのオムライスとして楽しまれるようになりました。日本の「包む」文化が、大切に心を包むように、この料理にも表れているのです。
7. ナポリタン:イタリアには存在しない日本の味
喫茶店の定番メニュー、ナポリタン。名前からナポリ発祥と思われがちですが、実は完全に日本生まれです。
ナポリタンの発祥地は、1927年(昭和2年)に横浜・山下町で開業した「ホテルニューグランド」です。戦前、初代総料理長のフランス人シェフ、サリー・ワイルがトマトソースで味付けしたスパゲッティ「スパゲッティ・ナポリテーヌ」を提供していました。これがナポリタンの原型です。
しかし現在のナポリタンの形が確立したのは戦後のことでした。1945年8月30日のマッカーサー来日直後から7年間、ホテルニューグランドはGHQに接収されていました。2代目総料理長の入江茂忠は、進駐軍の兵士がケチャップで和えただけの具なしスパゲッティを食べているのを目にしました。
「ケチャップだけでは味気ない」と考えた入江は、生トマト、タマネギ、ニンニク、トマトペースト、オリーブオイルでトマトソースを作り、炒めたハム、ピーマン、マッシュルームを加えてソースで和えたスパゲッティを考案しました。これが「スパゲッティーナポリタン」と呼ばれるようになったのです。
名前の由来については、入江が師のサリー・ワイルを通じてフランス料理の「スパゲッティ・ナポリテーヌ」の存在を知っており、日本人が呼びやすいように「ナポリテーヌ」を「ナポリタン」に変化させたと考えられています。フランス料理では、トマトで味付けした料理に「ナポリ風」と名付けるのが一般的でした。トマトの名産地ナポリにちなんだ呼称だったのです。
1946年には、横浜の花咲町で開業した洋食店「センターグリル」が、ホテルニューグランドで修業経験のある料理人により、より庶民的なケチャップベースのナポリタンを提供し始めました。こうして横浜で生まれたナポリタンは、1970年代には学校給食にも採用され、喫茶店や洋食店の定番メニューとして全国に広まっていきました。1980年代半ばまで、飲食店のスパゲッティはミートソースかナポリタンの2種類しかないことがほとんどだったのです。
8. 親子丼:「汁かけ飯は格が落ちる」と出前専用だった
優しい味わいで老若男女に愛される親子丼にも、興味深い誕生秘話があります。
親子丼発祥の店として知られるのは、東京・日本橋人形町にある鶏料理店「玉ひで」です。1760年(宝暦10年)創業という東京でも屈指の老舗で、初代・山田鐡右衛門は将軍の御前で血を見せずに鳥をさばき、熟練した包丁技を披露することを許された「御鷹匠」の家に生まれました。
1887年(明治20年)頃、軍鶏鍋(しゃもなべ)を提供していた玉ひでで、ある常連客が鍋の最後の〆として、残った煮汁を卵とじにして白飯のおかずとして食べるようになりました。これが「親子煮」と呼ばれていました。
1891年(明治24年)、五代目店主・山田秀吉の妻・とくは、この親子煮を見て「より食べやすくしよう」と考え、ご飯の上に乗せて一品料理とすることを考案しました。これが親子丼の始まりです。
しかし当時は「汁かけ飯を店で出すと格が落ちる」という風潮がありました。老舗としての矜持から、器ひとつで食べられる汁かけ飯のようなものを店のメニューとして出すわけにいかないと考えられたのです。そのため親子丼は出前専用の料理としてスタートしました。
当時、繁忙を極めていた魚河岸の人々の間で親子丼は大好評となりました。特に兜町、米屋町、日本橋を中心に注文が多く、この味が人々の間で人気になり、やがて全国に広まっていきました。玉ひでで店内での提供が始まったのは、なんと1979年(昭和54年)、七代目の時代になってからのことだったのです。
玉ひでの親子丼は、みりんをたっぷりと用いた非常に甘い割下で軍鶏の肉だけを煮て卵とじにしたもので、タマネギやミツバ等の野菜類は現在も使われていません。これが元祖の味です。一方、現在家庭で作られる親子丼は、鶏もも肉とともに玉ねぎやねぎを入れ、卵のかたさもそれぞれ好みで調理するのが一般的になっています。
9. 餃子:実は中国の餃子とは別物
中華料理の代表格として知られる餃子ですが、日本の餃子は中国とは大きく異なる独自の進化を遂げました。
中国では餃子といえば水餃子が主食として食べられるのが一般的です。特に北方では小麦粉の皮で作る水餃子が主食の位置づけで、ご飯と一緒に食べることはほとんどありません。焼き餃子(鍋貼)は、水餃子の残りを焼いて食べる二次利用的な存在でした。
日本に餃子が広まったのは第二次世界大戦後です。満州(現在の中国東北部)に駐留していた日本兵や満州に住んでいた日本人が、終戦後に引き揚げる際に餃子の作り方を持ち帰りました。戦後の食糧難の時代、安価で栄養価の高い餃子は庶民の味として急速に普及しました。
日本で焼き餃子が主流となった理由はいくつか考えられます。まず、日本人の嗜好として香ばしく焼いた皮の食感が好まれたこと。さらに、戦後の屋台文化の中で、手軽に提供できる焼き餃子が適していたことも大きな要因でした。また、日本では餃子をご飯のおかずやビールのつまみとして食べる文化が定着し、これも中国とは大きく異なる特徴となりました。
宇都宮や浜松など、日本各地に餃子の名産地が生まれたのも戦後の特徴です。各地で独自のスタイルが発展し、具材や焼き方にもバリエーションが生まれました。宇都宮餃子はあっさりとした味わい、浜松餃子はキャベツたっぷりでもやしを添えるなど、地域ごとの特色が確立されていったのです。
10. 肉じゃが:海軍がビーフシチューを再現しようとして
家庭料理の定番、肉じゃが。実は意外な経緯で生まれた料理でした。
肉じゃがの起源には諸説ありますが、最も有力なのが東郷平八郎によるビーフシチュー再現説です。明治時代、イギリスに留学していた東郷平八郎(後の海軍大将)は、現地でビーフシチューを食べて感銘を受けました。帰国後、その味を再現しようと料理人に命じたものの、当時の日本にはデミグラスソースやワインといった材料がありませんでした。
そこで料理人は、醤油と砂糖を使った和風の味付けで、牛肉とジャガイモ、玉ねぎを煮込んだ料理を作りました。これが肉じゃがの原型となったというのです。ビーフシチューを目指したはずが、まったく異なる日本独自の料理が誕生したというわけです。
もう一つの有力な説は、京都・舞鶴が発祥とするものです。舞鶴の海軍鎮守府でも同様の経緯で肉じゃがが生まれたとされ、舞鶴と呉(広島)の両市が「肉じゃが発祥の地」を名乗り、一時期は論争にもなりました。
いずれにせよ、肉じゃがは明治時代の西洋料理との出会いから生まれた、和洋折衷の料理だといえます。醤油と砂糖の甘辛い味付けは日本人の味覚に合い、家庭料理として全国に広まりました。現在では、牛肉を使う関西風と豚肉を使う関東風があり、地域によって味付けや具材にも違いが見られます。
11. コロッケ:フランス料理が日本の庶民食に
サクサクの衣と熱々のジャガイモが美味しいコロッケも、実は海外からの伝来料理です。
コロッケの起源はフランス料理の「croquette」(クロケット)にあります。クロケットは、茹でたジャガイモやひき肉、魚などをクリームソースで和え、俵型に成形してパン粉をつけて揚げた料理です。フランスでは高級料理の一品として扱われていました。
日本にコロッケが伝わったのは明治時代のことです。1887年(明治20年)刊行の『西洋料理法全書』に「カラクロケット」として紹介されたのが最初とされています。当初は西洋料理店で提供される高級な料理でしたが、次第に日本独自の進化を遂げていきました。
日本でのコロッケの大きな特徴は、肉よりもジャガイモを主体とした点です。当時、牛肉は高価で庶民には手が届きにくい食材でしたが、ジャガイモは比較的安価で入手しやすく、北海道での生産も盛んになっていました。そこで、ジャガイモをたっぷり使い、少量のひき肉と玉ねぎを加えた経済的なコロッケが開発されました。
大正時代には、コロッケは肉屋の店頭で揚げたてが売られる庶民的な惣菜として定着しました。「コロッケの歌」という童謡まで生まれ、子どもたちのおやつとしても人気を集めました。戦後の高度経済成長期には、冷凍コロッケも登場し、家庭料理としてさらに普及していったのです。
12. エビフライ:大正時代の銀座発祥
洋食の定番として愛されるエビフライも、実は日本で誕生した料理です。
エビフライは、大正時代(1910年代後半)に東京・銀座の洋食店「煉瓦亭」で考案されたとされています。とんかつやオムライスと同様、煉瓦亭は日本の洋食文化の発展に大きく貢献した店です。
西洋料理には「フリット」という揚げ物の技法がありますが、エビを尻尾まで真っ直ぐに伸ばしてパン粉をつけて揚げる「エビフライ」のスタイルは日本独自のものです。天ぷらのエビの扱い方を参考に、洋風の調理法と組み合わせることで生まれた、まさに和洋折衷の料理といえます。
エビフライが広く普及したのは戦後のことです。高度経済成長期に冷凍技術が発達し、エビの安定供給が可能になったことで、家庭料理としても定着しました。また、レストランや洋食店の定番メニューとなり、「エビフライ定食」は国民的な人気を得ました。
日本のエビフライの特徴は、その大きさとボリューム感にあります。大ぶりのエビを使い、サクサクのパン粉衣とタルタルソースの組み合わせは、日本人の味覚に完璧にマッチしました。名古屋では特大サイズの「エビフリャー」として地域の名物料理にもなっています。
13. 中華丼:中国には存在しない日本の中華料理
八宝菜をご飯にかけた中華丼は、中華料理店の定番メニューですが、実は中国には存在しない料理です。
日本で「中華丼」といえば、中華麺をウスターソース系のソースで炒め、青のり、紅生姜を添えたものを指しますが、これは日本で独自に発展した料理です。中国の炒麺(チャオメン)は醤油ベースの味付けが基本で、ソースを使うことはありません。
戦後、日本の街中華(町の中華料理店)で、手軽に食べられる丼物として考案されました。野菜や肉、海鮮などをバランスよく使った八宝菜は、それだけでも栄養価が高く、ご飯にかけることで一品で食事が完結する便利な料理となりました。
中華丼の具材には、豚肉、エビ、イカ、白菜、チンゲン菜、にんじん、しいたけ、たけのこなどが使われ、片栗粉でとろみをつけた餡がご飯によく絡みます。この「とろみ」も日本人の好みに合わせた工夫です。
天津飯と同様、中華丼も完全に日本生まれの「和製中華料理」の一つです。中国人が日本の中華丼を食べると、「これは日本料理だ」と感じるそうです。しかし、日本人の味覚と食文化に合わせて発展したこの料理は、今では日本の食文化の重要な一部となっています。
14. 天津飯:天津には存在しない謎の料理
ふわふわの卵と甘酢あんかけが美味しい天津飯ですが、その名前の由来には大きな謎があります。
天津飯は、昭和初期に日本の中華料理店で生まれたとされる料理です。ご飯の上にカニ玉(またはエビ玉)をのせ、甘酢あんをかけたもので、日本の中華料理店では定番メニューとなっています。
しかし、中国の天津市を訪れても、天津飯という料理は見当たりません。中国では卵料理をご飯にのせて食べる習慣自体が一般的ではないのです。では、なぜ「天津」という名前がついたのでしょうか。
一説には、大正時代に来日した中国人料理人が、故郷の天津を懐かしんで自分の店の料理に「天津」の名をつけたというものがあります。また、天津が海鮮の産地として知られていたため、カニやエビを使った料理に天津の名をつけたという説もあります。さらに、単に「中国風」という意味で港町の名前を借りただけという説もあり、真相は謎に包まれています。
東京の「来々軒」、大阪の「大正軒」など、複数の店が発祥を名乗っていますが、確証はありません。いずれにせよ、天津飯は日本人の味覚に合わせて開発された、日本オリジナルの「和製中華料理」なのです。
現在では、醤油ベースの餡をかける関東風と、塩味の餡をかける関西風があり、地域によって味わいが異なります。また、具材にカニではなくエビやカニかまぼこを使うなど、様々なバリエーションが存在します。
15. ドリア:横浜のホテルで誕生した創作料理
グラタンとピラフを組み合わせたようなドリアも、実は日本生まれの料理です。
ドリアが誕生したのは1930年代、横浜のホテルニューグランドです。ナポリタンの項でも触れた、初代総料理長のサリー・ワイルが考案者とされています。
ある日、体調を崩した欧州の銀行家がホテルに滞在していました。食欲がない彼のために、ワイルは消化の良い料理を考案しました。バターライスの上にエビのクリーム煮をのせ、ベシャメルソースとチーズをかけてオーブンで焼いた料理。これがドリアの原型です。
料理名の「ドリア」は、イタリア・ジェノヴァの貴族ドリア家にちなんで名付けられたという説が有力です。ドリア家は海洋国家として栄えたジェノヴァの名門で、料理に気品ある名前をつけたかったワイルの意図が感じられます。
ドリアはホテルニューグランドの名物料理として評判となり、やがて全国の洋食店やファミリーレストランでも提供されるようになりました。現在では、シーフードドリア、ミラノ風ドリア、カレードリアなど、様々なバリエーションが存在します。
西洋にはドリアという料理は存在せず、グラタンやリゾットはあっても、ご飯をオーブンで焼くという発想は日本独自のものでした。まさに日本の洋食文化が生んだ創作料理の傑作といえるでしょう。
16. ハヤシライス:「早矢仕さん」か「ハッシュドビーフ」か
デミグラスソースベースの牛肉煮込みをご飯にかけたハヤシライス。その名前の由来には複数の説があります。
ハヤシライスは明治時代後期に日本で生まれた洋食です。薄切りの牛肉と玉ねぎをデミグラスソースで煮込み、ご飯にかけた料理で、カレーライスと並んで日本の洋食を代表するメニューとなっています。
名前の由来には主に3つの説があります。第一の説は、「早矢仕有的(はやしゆうてき)」という人物が考案したというものです。彼は明治時代の洋食店を経営しており、自分の店で提供した料理に自分の名前をつけたとされています。
第二の説は、「hashed beef with rice」(ハッシュドビーフ・ウィズ・ライス)が「ハヤシライス」に変化したというものです。ハッシュドビーフは細かく刻んだ牛肉の料理で、これをライスと組み合わせたものが日本風にアレンジされ、発音が変化したという説です。
第三の説は、「林」という料理人が考案したため「林ライス」と呼ばれたというものです。いずれの説も確証はなく、ハヤシライスの起源は謎に包まれています。
ハヤシライスの特徴は、デミグラスソースのコクとトマトの酸味、牛肉の旨味が一体となった深い味わいにあります。カレーライスと比べてマイルドで上品な味わいは、子どもから大人まで幅広い層に愛されています。家庭でもハヤシルウが普及し、手軽に作れる定番メニューとなりました。
17. たらこスパゲティ:日本の食材と洋食の融合
和風パスタの代表格、たらこスパゲティ。この料理も完全に日本で生まれました。
たらこスパゲティが誕生したのは1960年代後半のことです。東京・渋谷の喫茶店「壁の穴」で、スパゲティに和風の食材を合わせる実験的な試みとして生まれました。当時はまだイタリアンパスタの多様性が日本に伝わっておらず、ナポリタンやミートソース以外のバリエーションが求められていた時代でした。
最初は、茹でたスパゲティにほぐしたたらこをバターで和えただけのシンプルなものでした。しかし、この組み合わせが予想以上に美味しく、たらこのプチプチとした食感と塩気、バターのコクがスパゲティと見事にマッチしました。
1970年代に入ると、生クリームを加えた「たらこクリームスパゲティ」も登場し、さらにバリエーションが広がりました。明太子を使った「明太子スパゲティ」も人気を集め、和風パスタというジャンルが確立されていきました。
たらこスパゲティの成功は、日本の食材を洋食に応用する可能性を広げました。その後、納豆スパゲティ、しそと梅のスパゲティ、じゃこと大葉のスパゲティなど、様々な和風パスタが生まれるきっかけとなったのです。イタリア人からは「ありえない組み合わせ」と驚かれることもありますが、日本では定番の人気メニューとして定着しています。
18. 焼き鳥:串焼きは江戸時代から
居酒屋の定番、焼き鳥。その歴史は意外にも古く、江戸時代にまで遡ります。
「焼き鳥」という言葉は、文字通り「鳥を焼いた料理」という意味ですが、江戸時代の焼き鳥は現在とは大きく異なるものでした。当時焼かれていたのは、鶏ではなく雀やツグミ、ヒバリなどの小鳥だったのです。
江戸時代中期には、これらの小鳥を串に刺して焼く屋台が江戸の町に登場しました。『守貞謾稿』などの文献にも記録が残っています。鶏は卵を産む貴重な家禽として飼われていたため、食用とされることは少なく、代わりに野鳥が焼き鳥として売られていたのです。
現在のような鶏肉の焼き鳥が一般的になったのは明治時代以降です。文明開化とともに肉食が普及し、養鶏も盛んになったことで、鶏肉が手に入りやすくなりました。大正時代には串焼きの屋台が増え、昭和初期には焼き鳥専門店も登場しました。
戦後、焼き鳥は居酒屋文化とともに発展しました。もも肉、胸肉、皮、ねぎま、つくね、レバー、砂肝など、鶏のあらゆる部位を無駄なく使う焼き鳥文化が確立されました。タレと塩の2種類の味付けも定着し、ビールとの相性の良さから、サラリーマンの憩いの場として愛されるようになったのです。
地域によっても特色があり、北海道では豚肉の串焼きを「焼き鳥」と呼んだり、福岡では「焼き鳥」といえば豚バラ串を指すこともあります。このように、焼き鳥は長い歴史の中で日本各地で独自の発展を遂げた、奥深い料理なのです。
19. おにぎり:弥生時代から存在した携帯食
日本人のソウルフード、おにぎり。その歴史は驚くほど古いものでした。
おにぎりの起源は弥生時代にまで遡ることができます。1987年、石川県鹿島郡鹿西町(現・中能登町)の杉谷チャノバタケ遺跡で、弥生時代後期(紀元1世紀頃)の炭化した米の塊が発見されました。これはおそらく人の手で握られた跡があり、日本最古のおにぎりと考えられています。
平安時代には「屯食(とんじき)」という、おにぎりの原型となる食べ物が貴族の間で食されていました。これは強飯(こわいい=固めに炊いた米)を丸めたもので、携帯食や兵糧として重宝されました。『源氏物語』などの文学作品にも登場しています。
鎌倉時代には武士の携帯食として、戦場でも食べられるおにぎりが普及しました。この頃から海苔を巻く習慣も始まったとされています。海苔は保存性を高め、手を汚さずに食べられるという実用的な利点がありました。
江戸時代になると、おにぎりは庶民の間でも広く食べられるようになりました。宿場町や街道沿いの茶屋では、旅人向けにおにぎりが売られていました。また、農作業の合間の軽食や、花見・紅葉狩りなどの行楽食としても親しまれました。
現代では、コンビニエンスストアのおにぎりが大きな市場を形成しています。1978年にセブン-イレブンが「おにぎり」の販売を開始して以来、様々な具材やスタイルが開発され、年間数十億個が販売される国民食となっています。古代から現代まで、形を変えながらも日本人に愛され続けているおにぎりは、日本食文化の象徴ともいえる存在です。
20. 唐揚げ:実は日本風にアレンジされた料理
サクサクジューシーな鶏の唐揚げ。中国料理のイメージがありますが、日本の唐揚げは独自の進化を遂げました。
「唐揚げ」という名称は、「唐」(中国)から伝わった揚げ物という意味ですが、現在日本で一般的な鶏の唐揚げは、中国料理とは異なる日本独自の料理に発展しました。
中国には「炸鶏(ザーチー)」という鶏の揚げ物がありますが、これは塩味が基本で、揚げた後にスパイスをまぶすスタイルです。一方、日本の唐揚げは醤油、生姜、にんにくなどで下味をつけ、片栗粉をまぶして揚げるのが特徴です。この下味をつける工程と片栗粉の使用が、日本の唐揚げ独特のジューシーさとサクサク感を生み出しています。
日本で唐揚げが広まったのは昭和初期とされています。1932年の料理本に「鶏肉の唐揚げ」のレシピが掲載されており、この頃から家庭料理としても作られるようになりました。戦後、鶏肉の生産が盛んになると、唐揚げはさらに普及していきました。
1970年代には、大分県中津市や宇佐市で「鶏の唐揚げ」が名物料理として確立されました。これらの地域では独自の唐揚げ文化が発展し、「中津からあげ」「宇佐からあげ」として全国的に知られるようになりました。それぞれの店が秘伝のタレやレシピを持ち、地域を代表するソウルフードとなっています。
現在では、コンビニエンスストアやスーパーマーケットでも唐揚げが販売され、「国民食」としての地位を確立しています。また、唐揚げ専門店も全国に展開し、揚げたての唐揚げを手軽に楽しめるようになりました。中国から伝わった揚げ物の技法が、日本で独自の進化を遂げた好例といえるでしょう。
21. たこ焼き:元祖は牛肉とこんにゃく入りだった
大阪のソウルフード、たこ焼き。実はその誕生には意外な経緯がありました。
たこ焼きが誕生したのは1935年(昭和10年)、大阪・西成区の会津屋の初代・遠藤留吉が考案したとされています。しかし最初の「たこ焼き」は、現在のものとは大きく異なっていました。
当時、大阪では「ラヂオ焼き」という、小麦粉を丸く焼いた中に牛肉とこんにゃくを入れた食べ物が人気でした。遠藤はこれをヒントに、明石の「玉子焼き」(小麦粉の生地にタコを入れて焼いたもの)を参考にして、醤油味の生地で作る料理を開発しました。
興味深いことに、最初の「たこ焼き」には実はタコだけでなく、牛肉とこんにゃくも一緒に入っていたのです。「ラヂオ焼きの牛肉とこんにゃくを、明石焼きのタコに置き換えた」というよりも、「両方の要素を取り入れた」というのが正確でした。
現在のような「タコだけが入ったたこ焼き」が主流となったのは戦後のことです。食糧難の時代が過ぎ、材料が自由に手に入るようになると、よりシンプルで食べやすい「タコのみ」のスタイルが定着していきました。また、ソースをかけて食べるスタイルも戦後に確立されたものです。
たこ焼き器が家庭用に普及したのは1970年代以降で、大阪では「たこ焼きパーティー」が家族の団らんの定番となりました。現在では大阪を代表する食文化として、世界中に知られる存在となっています。
22. お好み焼き:「一銭洋食」から生まれた庶民の味
お好み焼きは関西を代表する料理ですが、その起源は大正時代の駄菓子屋にありました。
お好み焼きのルーツは、大正時代に京都や大阪で流行した「一銭洋食」にあります。これは水で溶いた小麦粉を鉄板で薄く焼き、その上にネギや紅生姜、天かすなどを乗せ、ソースをかけて二つ折りにしたもので、駄菓子屋で一銭(今の価値で約30円)で売られていました。
「洋食」という名前がついているのは、当時「ソースを使う=洋食」というイメージがあったためです。子どもたちに大人気のおやつでしたが、栄養価は低く、あくまで駄菓子の一種でした。
昭和に入ると、この一銭洋食に卵やキャベツ、肉を加えて栄養価を高めた「お好み焼き」が登場しました。「お好み」という名称は、客が好きな具材を選べることに由来しています。1930年代には大阪で「お好み焼き」という名称が定着していたことが文献から確認されています。
戦時中、お好み焼きはいったん姿を消しましたが、戦後の食糧難の時代に復活しました。闇市で小麦粉(主にメリケン粉)が比較的手に入りやすく、少量の食材でもボリュームが出せるお好み焼きは、庶民の強い味方となったのです。
広島風お好み焼きは、広島市で独自の発展を遂げました。麺(そばやうどん)を入れるスタイルは、より満腹感を得られるように工夫されたものです。また、関西風と広島風では焼き方も大きく異なり、関西風は生地と具材を混ぜて焼くのに対し、広島風は薄く伸ばした生地の上に具材を重ねていく「重ね焼き」が特徴です。
23. ちゃんぽん:日本人学生のために考案された留学生食
長崎の名物料理ちゃんぽん。実は明治時代、ある中国人の優しさから生まれた料理でした。
ちゃんぽんが誕生したのは1899年(明治32年)、長崎市の中華料理店「四海樓」の初代店主・陳平順によってでした。当時、長崎には多くの中国人留学生が学んでいましたが、彼らの多くは経済的に厳しい状況にありました。
陳平順は故郷・福建省の料理をヒントに、豚肉、野菜、かまぼこ、イカ、エビなど様々な具材をたっぷりと使い、豚骨と鶏ガラでとったスープで煮込んだ麺料理を開発しました。一杯で栄養バランスが取れ、しかも安価なこの料理を、留学生たちに提供したのです。
料理名の「ちゃんぽん」の語源には複数の説があります。最も有力なのは、福建省の方言で「飯を食べたか?」を意味する「喫飯(シャポン)」が転じたという説です。また、様々な具材を「ちゃんぽん(混ぜる)」に入れることから名付けられたという説もあります。
長崎のちゃんぽんの特徴は、麺を茹でずに野菜や肉と一緒にスープで煮込むことです。これにより、具材の旨味が麺にしみ込み、スープにもコクが出ます。また、太めの麺はスープをよく絡め、食べごたえがあります。
戦後、長崎ちゃんぽんは全国チェーン「リンガーハット」などによって全国に広まり、今では長崎を代表する郷土料理として国内外で愛されています。留学生を思う一人の中国人の優しさから生まれた料理が、150年以上経った今も多くの人々に愛されているのです。
24. 冷やし中華:「中華」なのに中国には存在しない夏の定番
夏の定番メニュー、冷やし中華。実はこれも完全に日本生まれの料理です。
冷やし中華の誕生には複数の説がありますが、最も有力なのは1937年(昭和12年)に仙台の中華料理店「龍亭」で生まれたという説です。当時、夏場はラーメンの売り上げが落ち込むことに悩んでいた店主が、涼しげな冷たい麺料理を考案しました。
当初は「涼拌麺(リャンバンメン)」という名前で、茹でた麺を冷水で締め、細切りにしたキュウリ、ハム、錦糸卵を盛り付け、醤油ベースのタレをかけたシンプルなものでした。これが大ヒットし、夏の定番メニューとなったのです。
一方、東京では1933年頃に神田の「揚子江菜館」でも冷やし中華の原型が提供されていたという記録があります。どちらが先かは定かではありませんが、1930年代に日本各地でほぼ同時期に開発されていたことは確かです。
「冷やし中華」という名称が一般化したのは戦後のことで、それまでは「冷麺」「涼麺」「冷やしそば」など様々な名前で呼ばれていました。また、関西では「冷麺」と呼ばれることも多く、地域によって呼び方が異なります。
中国には確かに冷たい麺料理は存在しますが、日本の冷やし中華のように、錦糸卵、ハム、キュウリ、トマトなどを彩りよく盛り付け、ゴマダレや醤油ダレをかけて食べるスタイルは日本独自のものです。特にマヨネーズを使ったりゴマだれを使ったりする点は、完全に日本の創作です。
最近では、冷やし中華も多様化し、つけ麺風、イタリアン風、エスニック風など様々なバリエーションが生まれています。
25. カツ丼:とんかつより先に存在していた
サクサクのカツを卵でとじたカツ丼。実はとんかつの完成形より先に誕生していました。
カツ丼の誕生には諸説ありますが、最も有力なのは1918年(大正7年)、東京・早稲田の蕎麦屋「三朝庵」の創業者・中西敬二郎が考案したという説です。当時、カツレツは存在していましたが、現在のような厚切りのとんかつはまだ一般的ではありませんでした。
ある日、カツレツを注文した学生が「これを丼に乗せてくれないか」と頼んだことがきっかけだったとされています。中西は蕎麦屋の技術を応用し、カツレツを卵でとじてご飯に乗せた丼を提供しました。これが大好評となり、「カツ丼」として定着したのです。
当時の早稲田大学周辺には多くの学生が下宿しており、手軽に食べられてボリュームのあるカツ丼は学生たちの間で瞬く間に人気となりました。その後、カツ丼は全国の蕎麦屋や食堂に広まっていきました。
興味深いのは、カツ丼には地域によって大きなバリエーションがあることです。関東では卵でとじた「カツ丼」が主流ですが、福井県では卵を使わず、ウスターソースをかけたカツをご飯に乗せた「ソースカツ丼」が一般的です。新潟県や群馬県にも独自のソースカツ丼文化があります。
また、カツ丼は日本の刑事ドラマでは「取調室で容疑者に出される食事」として描かれることが多く、これも日本独特の文化現象といえるでしょう。実際には警察でカツ丼が出されることはほとんどありませんが、このイメージは強く定着しています。
26. かき氷:平安貴族が楽しんだ究極の贅沢
夏の風物詩、かき氷。その歴史は驚くほど古く、千年以上前に遡ります。
日本最古のかき氷の記録は、平安時代の『枕草子』に見ることができます。清少納言は「あてなるもの(上品なもの)」として「削り氷(けずりひ)に甘葛(あまづら)入れて、新しき金鋺(かなまり)に入れたる」と記しています。これは、削った氷に甘葛(植物の樹液から作った甘味料)をかけて、金属の器で食べたことを意味しています。
しかし当時、氷は超高級品でした。冬の間に切り出した天然氷を「氷室(ひむろ)」と呼ばれる貯蔵庫に保管し、夏まで溶けないように管理する必要がありました。氷室は主に山間部の洞窟などに作られ、厳重に管理されていました。したがって、かき氷を食べられるのは天皇や貴族など、ごく限られた階層だけだったのです。
江戸時代になっても、氷は将軍や大名などの特権階級のものでした。加賀藩では氷室から氷を取り出して江戸まで運ぶ「氷の献上」が行われ、これは大変な名誉とされていました。
庶民がかき氷を楽しめるようになったのは明治時代以降です。1869年(明治2年)、横浜の馬車道で「氷水屋」が開業し、これが日本初のかき氷店とされています。明治後期には製氷技術が発達し、人工的に氷を作れるようになったことで、かき氷は庶民の手の届く存在となりました。
大正時代には、手回し式の氷削り器が登場し、夏祭りや縁日の屋台でかき氷が売られるようになりました。イチゴ、メロン、レモンなどのシロップも開発され、カラフルなかき氷が夏の風物詩として定着したのです。
現在では、天然氷を使った高級かき氷や、フルーツをふんだんに使った創作かき氷など、多様なスタイルが楽しまれています。
27. あんぱん:明治天皇への献上から始まった日本のパン文化
菓子パンの代表格、あんぱん。これは完全に日本で開発された、世界に類を見ないパンです。
あんぱんが誕生したのは1874年(明治7年)、東京・銀座の「木村屋總本店」(現在の木村屋總本店)の創業者・木村安兵衛と息子の英三郎によってでした。当時、日本にはまだパン食の習慣がほとんどなく、パン屋も限られていました。
木村親子は「日本人の口に合うパンを作りたい」と考え、日本の伝統的な和菓子の餡をパンに入れるというアイデアを思いつきました。さらに革新的だったのは、パン生地に酒種(日本酒の酵母)を使ったことです。当時のパンはビール酵母を使っていましたが、酒種を使うことで、ほんのりと甘く、しっとりとした日本人好みの生地が完成しました。
1875年(明治8年)4月4日、向島の水戸藩下屋敷にお花見のために行幸された明治天皇に、山岡鉄舟の進言により、桜の塩漬けを埋め込んだあんぱんが献上されました。天皇は大変気に入り、これ以降、木村屋のあんぱんは「宮内省御用達」となりました。
この出来事がきっかけとなり、あんぱんは全国的に知られるようになりました。桜の塩漬けを乗せた「桜あんぱん」は、今でも木村屋の看板商品です。4月4日は「あんぱんの日」として記念日にもなっています。
あんぱんの成功は、その後のクリームパン(1904年、新宿中村屋)、ジャムパン(1900年頃)など、様々な菓子パンの開発につながりました。日本の菓子パン文化は、あんぱんから始まったといっても過言ではありません。
現在、日本のパン屋やコンビニには何十種類もの菓子パンが並んでいますが、この豊かな菓子パン文化の原点は、明治時代の木村屋のあんぱんにあるのです。
28. メロンパン:名前の由来は形?模様?それとも...
サクサクのクッキー生地とふんわりパンの組み合わせが美味しいメロンパン。実はその名前の由来には諸説あり、謎に包まれています。
メロンパンの起源には主に2つの説があります。一つは大正時代末期から昭和初期に東京で誕生したという説。もう一つは神戸で生まれたという説です。
東京説では、1910年代後半に登場した「サンライズ」というパンがメロンパンの原型とされています。当時はまだ「メロンパン」という名前ではなく、丸い形にクッキー生地を被せたパンとして売られていました。名前の由来については、マスクメロンのような格子状の模様をつけたからという説と、形がメロンに似ているからという説があります。
一方、神戸説では1920年代に神戸の洋菓子店が、メロン果汁を加えた香り高いパンを開発し、それが「メロンパン」と名付けられたとされています。興味深いのは、神戸周辺では現在も「メロンパン」というと、ラグビーボール型で中に白あんが入ったパンを指すことです。
このラグビーボール型のメロンパンは「神戸型メロンパン」とも呼ばれ、関西の一部地域で根強い人気があります。表面はクッキー生地ではなく、ビスケット生地で覆われており、東京のメロンパンとは全く異なる食感です。
さらに混乱を招くのは、広島では丸いクッキー生地付きのパンを「サンライズ」と呼び、神戸型のものを「メロンパン」と呼ぶという逆転現象があることです。
1980年代以降、コンビニエンスストアの普及により、東京型の丸いクッキー生地付きメロンパンが全国標準となりました。現在では、メロン果汁入り、チョコチップ入り、生クリーム入りなど、様々なバリエーションが開発され、進化を続けています。
29. 焼きそば:中華料理とは全く別物の日本の味
屋台やお祭りの定番、ソース焼きそば。これも中国の炒麺とは大きく異なる日本独自の料理です。
日本で「焼きそば」といえば、中華麺をウスターソース系のソースで炒め、青のり、紅生姜を添えたものを指しますが、これは日本で独自に発展した料理です。中国の炒麺(チャオメン)は醤油ベースの味付けが基本で、ソースを使うことはありません。
日本式の焼きそばが誕生したのは戦後のことです。戦後の混乱期、闇市や屋台で手軽に食べられる料理として広まりました。当時、メリケン粉(小麦粉)と中華麺は比較的入手しやすく、野菜も少量で済むため、経済的な料理として重宝されました。
ウスターソースを使うようになった理由には諸説ありますが、戦前から日本の洋食文化に定着していたウスターソースが、醤油とは違う「ハイカラな味」として好まれたという説が有力です。また、屋台で簡単に味付けができる調味料として、ソースが便利だったという実用的な理由もあります。
1950年代には、各地の駄菓子屋で「ベビースターラーメン」などの即席焼きそばスナックが登場し、子どもたちの間で「焼きそば」という味が定着していきました。また、鉄板を使った本格的な焼きそばも、お祭りの屋台や地域の催しで提供されるようになりました。
1963年には「ペヤングソースやきそば」が、1975年には「日清焼そばU.F.O.」が発売され、カップ焼きそばという新しいジャンルが確立されました。これにより焼きそばはさらに国民食としての地位を固めました。
地域による特色も豊富で、富士宮やきそば(静岡県)、横手やきそば(秋田県)、太田焼きそば(群馬県)など、各地で独自のスタイルが発展しています。中国から伝わった麺料理が、日本でまったく異なる料理に進化した好例といえるでしょう。
30. カレーパン:関東大震災が生んだ名コンビネーション
カリカリの揚げパンに包まれた熱々のカレー。この組み合わせは、実は大災害がきっかけで生まれました。
カレーパンが誕生したのは1927年(昭和2年)、東京・江東区の「名花堂(現在のカトレア)」で、創業者の中田豊治が考案したとされています。関東大震災(1923年)の復興期という時代背景が、この料理の誕生に大きく関わっています。
震災時、パンは保存がきかず、すぐに傷んでしまうという弱点がありました。一方、カレーは香辛料の効果で比較的保存がきく食品でした。中田は「カレーをパンで包んで揚げれば、両方の利点を活かせるのではないか」と考えたのです。
当初は平らな半月型で、パン生地でカレーを包み、パン粉をつけて油で揚げるという調理法でした。揚げることで表面がカリッとし、中のカレーの水分が外に出にくく、保存性が高まりました。また、揚げたてが美味しいだけでなく、冷めても美味しく食べられるという利点もありました。
カレーパンの形状は、当初はカツレツに似た形でしたが、次第に現在のようなラグビーボール型や半月型が一般的になりました。パン粉の粗さや揚げ油の温度、カレーの辛さなど、各店がこだわりを持って作るようになり、カレーパン専門店も登場しました。
1980年代には、コンビニエンスストアでもカレーパンが販売されるようになり、さらに身近な存在となりました。最近では、揚げずに焼いた「焼きカレーパン」や、チーズ入り、キーマカレー入りなど、様々なバリエーションが開発されています。
「日本カレーパン協会」という団体まで存在し、毎年「カレーパングランプリ」が開催されるなど、カレーパンは日本の食文化の中で独自の地位を確立しています。災害の教訓から生まれた一つの料理が、100年近く経った今も愛され続けているのです。
参考文献
- 『天ぷらの歴史』昭和産業株式会社天ぷら百科, https://www.showa-sangyo.co.jp/knowlege/tempura/learn/
- ジェラフスキー, D., 小野木明恵(訳) (2018)『ペルシア王は「天ぷら」がお好き?』早川書房
- 『カレーライス』Wikipedia, https://ja.wikipedia.org/wiki/カレーライス
- 『日本のカレーの歴史とは?』jpnculture.net, https://jpnculture.net/curry/
- 『ラーメン』Wikipedia, https://ja.wikipedia.org/wiki/ラーメン
- 『中国の麺料理に起源を持つ日本食ラーメンの歴史』ヒトサラマガジン, https://magazine.hitosara.com/article/896/
- 『豚カツ』Wikipedia, https://ja.wikipedia.org/wiki/豚カツ
- 『トンカツはじめて物語』RadiChubu, https://radichubu.jp/kibun/contents/id=43166
- 『寿司の歴史』ミツカンすしラボ, https://www.mizkan.co.jp/sushilab/manabu/0.html
- 『寿司の起源と進化』株式会社かね㐂, https://sushi-kaneki.co.jp/archives/4034
- 『オムライス』Wikipedia, https://ja.wikipedia.org/wiki/オムライス
- 『オムライスの誕生秘話』北極星, https://hokkyokusei.jp/news.html
- 『ナポリタン』Wikipedia, https://ja.wikipedia.org/wiki/ナポリタン
- 『ナポリタン発祥の地』横浜移住サイト, https://iju-sumu.city.yokohama.lg.jp/tips/931/
- 『親子丼』Wikipedia, https://ja.wikipedia.org/wiki/親子丼
- 『親子丼発祥の玉ひで』macaroni, https://macaro-ni.jp/96209
- 『日本の料理文化』農林水産省うちの郷土料理, https://www.maff.go.jp/
- 『たこ焼きの歴史』会津屋公式サイト
- 『お好み焼きの起源』日本お好み焼き協会
- 『ちゃんぽんの歴史』四海樓公式サイト
- 遠山英志『テンプラ史論』
- 小菅桂子『洋食の誕生』
- 岩岡洋志『ラーメンの歴史』新横浜ラーメン博物館
料理の歴史を知ることで、私たちが日常的に食べている食事がいかに多様な文化の交流と、先人たちの創意工夫によって生まれてきたかがわかります。「和食」と思っていた天ぷらがペルシア起源だったり、「洋食」と思っていたナポリタンが実は日本生まれだったり。また、災害や戦争といった困難な時代を乗り越えるために生まれた料理も数多く存在します。食文化は国境を越えて伝わり、その土地の人々の嗜好や工夫、時代背景によって独自の進化を遂げるのです。これらの料理の歴史を知った上で食べると、いつもの食事がより深い味わいを持ち、作り手の思いや歴史の重みを感じることができるでしょう。