
2025年ノーベル経済学賞:イノベーション主導の経済成長論
—モキイア、アギオン、ハウィットの研究とその後続研究の包括的分析—
2025年10月13日、スウェーデン王立科学アカデミーは、ノーベル経済学賞を米ノースウェスタン大学のジョエル・モキイア教授、仏コレージュ・ド・フランスのフィリップ・アギオン教授、米ブラウン大学のピーター・ハウィット名誉教授の3名に授与することを発表した。授賞理由は「イノベーション主導の経済成長の解明」である。本稿では、これら3名の受賞者の研究内容を詳細に分析し、その理論的基盤、実証的貢献、そして後続研究への影響を包括的に検討する。特に、モキイアの歴史的アプローチによる知識の役割の解明、アギオン-ハウィットモデルによる創造的破壊の理論化、そしてこれらの研究がもたらした経済成長理論のパラダイムシフトについて詳述する。
1. イントロダクション:経済成長理論における新たな地平
過去200年間、世界経済は前例のない持続的成長を経験してきた。18世紀後半の産業革命以降、先進国の一人当たり所得は約10倍から20倍に増加し、数十億人が貧困から脱却した。この歴史的転換点は、人類史において最も重要な経済現象の一つである。しかし、この持続的成長はなぜ、どのようにして可能になったのか。そして、なぜそれ以前の数千年間は経済的停滞が続いていたのか。
2025年のノーベル経済学賞は、まさにこの根本的な問いに対する答えを提供した研究者たちに授与された。ジョエル・モキイア、フィリップ・アギオン、ピーター・ハウィットの3名は、それぞれ異なるアプローチを用いながらも、イノベーションが経済成長の中心的な駆動力であることを理論的・実証的に示した。
従来の経済成長理論、特にソロー・モデル(Solow, 1956, 1957)は、技術進歩を外生的な要因として扱ってきた。
外生的(exogenous):モデルの外部から与えられる、説明されない変数。ソローモデルでは、技術進歩率は「天から降ってくる」ように外から与えられ、なぜその率なのかは説明されません。
内生的(endogenous):モデル内部のメカニズムによって決定される変数。内生的成長理論では、技術進歩は企業のR&D投資、人的資本の蓄積など、経済主体の意思決定の結果として説明されます。
つまり、技術進歩は経済システムの外部から「天から降ってくる」ものとして仮定されていた。これに対し、1980年代後半から1990年代にかけて発展した内生的成長理論(Romer, 1990; Grossman and Helpman, 1991)は、技術進歩を経済システム内部のメカニズムとして説明しようと試みた。しかし、これらのモデルにも限界があった。
本稿で取り上げる3名の受賞者は、この理論的ギャップを埋める画期的な貢献を行った。モキイアは経済史家として、産業革命とそれ以降の持続的成長を可能にした知識構造の変化を詳細に分析した。一方、アギオンとハウィットは、ヨーゼフ・シュンペーターが提唱した「創造的破壊」の概念を、厳密な数理経済学のモデルとして定式化することに成功した。
2. 受賞者の紹介と研究の概要
2.1 ジョエル・モキイア(Joel Mokyr)
所属:ノースウェスタン大学経済学・歴史学教授、テルアビブ大学エイタン・ベルガス経済学院教授
学歴:1974年にイェール大学で博士号取得
受賞理由:「技術進歩を通じた持続的成長の前提条件の特定」
モキイアは1946年、オランダのライデンに生まれた。ホロコースト直後の時期に生まれ、イスラエルで育った彼は、経済史、特に技術変化の歴史に深い関心を持つようになった。彼の研究は、単なる歴史記述にとどまらず、経済理論と歴史的エビデンスを融合させた独自のアプローチで知られている。
モキイアの主要な貢献は、「有用な知識」(useful knowledge)の概念を中心に据えた経済成長理論の構築にある。彼の代表的著作である『富のてこ(The Lever of Riches, 1990)』と『アテナの贈り物(The Gifts of Athena, 2002)』において、彼は産業革命とその後の持続的成長を可能にしたメカニズムを詳細に分析した。
2.1.1 命題的知識と処方的知識
モキイアの理論的枠組みの核心は、知識を2つのカテゴリーに分類することにある。彼はこれを、命題的知識(propositional knowledge、Ω[オメガ])と処方的知識(prescriptive knowledge、λ[ラムダ])と呼んだ。
処方的知識(λ[ラムダ]):実用的な指示、図面、レシピなど、「何が必要か」という技術的ノウハウ。職人の技能、生産方法、実践的手順など。
モキイアの重要な洞察は、持続的な経済成長には、これら2種類の知識の間の正のフィードバックループが不可欠だということである。命題的知識が深まることで、処方的知識はより改善可能になる。同時に、新しい処方的知識は、それがなぜ機能するのかという科学的疑問を生み出し、命題的知識の発展を促す。
2.1.2 産業啓蒙(Industrial Enlightenment)
モキイアは、18世紀のヨーロッパで起こった「産業啓蒙」が、産業革命を単発の技術革新から持続的な経済成長へと転換させた決定的要因であると主張する。産業啓蒙とは、科学革命と産業革命を結びつける「失われた環」である。
産業啓蒙の主要な特徴は以下の通りである:
(1)知識の民主化:科学的知識が、大学や王立協会といった閉ざされた場所から、より広範な社会層に普及した。「文芸共和国(Republic of Letters)」と呼ばれる知識人のネットワークが形成され、国境を越えた知識の交換が活発化した。
(2)理論と実践の架橋:科学者と職人、理論家と実践者の間に、かつてない協力関係が生まれた。例えば、陶磁器製造業者のジョサイア・ウェッジウッドは、化学者アントワーヌ・ラヴォアジエやジョセフ・プリーストリーと手紙を交わし、科学的知識を実業に応用した。
(3)実験と検証の重視:単なる経験則や伝統的手法に頼るのではなく、体系的な実験と科学的検証に基づく技術開発が重視されるようになった。
(4)進歩への信念:啓蒙思想の影響下で、人類は知識の蓄積を通じて物質的条件を改善できるという信念が広まった。この文化的変容が、イノベーションに対する社会的支持を生み出した。
2.2 フィリップ・アギオンとピーター・ハウィット
所属:コレージュ・ド・フランス教授、INSEAD、ロンドン・スクール・オブ・エコノミクス
学歴:1987年にハーバード大学で博士号取得
受賞理由:「創造的破壊を通じた持続的成長の理論」(ハウィットと共同)
所属:ブラウン大学名誉教授
学歴:1973年にノースウェスタン大学で博士号取得
受賞理由:「創造的破壊を通じた持続的成長の理論」(アギオンと共同)
アギオンとハウィットは、1992年に発表した画期的論文「創造的破壊を通じた成長のモデル(A Model of Growth Through Creative Destruction)」において、シュンペーター的成長理論の数理的基礎を確立した。この論文は、経済学において最も引用される論文の一つとなり、成長理論の分野に革命をもたらした。
3. アギオン-ハウィットモデル:創造的破壊の理論化
3.1 シュンペーターの創造的破壊
ヨーゼフ・シュンペーター(Joseph Schumpeter)は、1942年の著書『資本主義、社会主義、民主主義(Capitalism, Socialism and Democracy)』において、「創造的破壊(creative destruction)」の概念を提唱した。シュンペーターによれば:
シュンペーターの洞察は深遠だったが、厳密な数理モデルとして定式化されてはいなかった。アギオンとハウィットの1992年論文は、この理論的ギャップを埋めることを目指した。
3.2 基本モデルの構造
アギオン-ハウィットモデルは、以下の主要な特徴を持つ:
3.2.1 垂直的イノベーション
モデルの中心にあるのは、「垂直的イノベーション」(vertical innovation)の概念である。これは、既存の製品やプロセスを改善する質的向上のイノベーションを指す。これは、ローマー(Romer, 1990)の「水平的イノベーション」(製品の種類を増やす)とは対照的である。
各セクターiにおいて、時点tでの最新技術の生産性をAt(i)とする。イノベーションが成功すると、生産性は以下のように向上する:
この式の意味:次の期(t+1)の生産性は、現在の期(t)の生産性にγ倍されたものになる、ということです。例えば、γ=1.2ならば、イノベーションによって生産性が20%向上することを意味します。
ここで、γ(ガンマ)> 1はイノベーションのサイズを表す品質向上率である。γが大きいほど、イノベーションによる生産性の向上幅が大きいことを示す。
3.2.2 研究開発と創造的破壊
企業は研究開発(R&D)に投資することで、イノベーションを追求する。イノベーションが成功すると、その企業は一時的な独占を獲得し、レント(rent、経済的地代)を得る。
しかし、この独占は次のイノベーターによって破壊される。これが「創造的破壊」である。つまり、新しいイノベーションは古い技術を時代遅れにし、前のイノベーターが享受していたレントを奪い取るのです。
重要なのは、イノベーションが二重の外部性を持つことである:
(1)正の外部性(知識スピルオーバー効果):各イノベーションは、将来のイノベーターが立脚できる知識基盤を向上させる。
これにより、生産性Atは永続的に上昇する。つまり、今日のイノベーションは明日のイノベーションを容易にするのです。
(2)負の外部性(ビジネス盗取効果):新しいイノベーションは、前のイノベーターのレントを破壊する。新技術によって旧技術が市場から駆逐されると、旧技術を持っていた企業の超過利潤は消滅します。これは特許競争の部分均衡理論で知られる「ビジネス盗取効果(business-stealing effect)」である。
3.2.3 均衡と成長率
モデルは、前向きの差分方程式によって均衡が決定される。各期のR&D投資は、次期に予想されるR&D投資に依存する。なぜなら、将来のR&D活動が活発であれば、現在のイノベーションから得られるレント(超過利潤)の持続期間が短くなるからである。
定常均衡においては、R&D雇用が一定であり、GNPは以下のようにランダムウォークにドリフトを加えた形で推移する:
(読み方:ログ ジーエヌピー・ティープラスワン イコール ログ ジーエヌピー・ティー プラス ミュー プラス イプシロン・ティープラスワン)
この式の意味:GNPの対数値の変化を表しています。次の期のGNP(の対数)は、今期のGNPに、①平均的な成長分(μ、ミュー)と、②予測できないランダムな変動(ε、イプシロン)を加えたものになる、という意味です。μが大きいほど、経済は平均的に速く成長します。
ここで、μ(ミュー)は平均成長率(ドリフト項)であり、これはモデル内生的に決定される。特に、μは以下に依存する:
- イノベーションのサイズ(γ、ガンマ):1回のイノベーションでどれだけ生産性が向上するか
- 熟練労働力の規模:研究開発に従事できる人材がどれだけいるか
- 研究の生産性:R&D投資がどれだけ効率的にイノベーションを生み出すか
- 時間選好率:人々が現在の消費と将来の消費をどう評価するか
3.3 規範的分析:最適成長率
アギオン-ハウィットモデルの画期的な貢献の一つは、自由放任経済における成長率が必ずしも最適ではないことを示したことである。
従来の内生的成長モデル(Romer, 1990など)では、正の外部性(知識スピルオーバー)のみが存在するため、自由放任経済の成長率は最適水準を下回る傾向がある。しかし、アギオン-ハウィットモデルでは、負の外部性(ビジネス盗取効果)も存在するため、成長率が過大になる可能性もある。
社会的プランナーの視点からは、以下の3つの効果が重要である:
(1)取得可能性効果(Appropriability effect):イノベーターは社会的価値の一部しか取得できないため、R&D投資が過小になる。
(2)時間間スピルオーバー効果(Intertemporal spillover effect):現在のイノベーターは、将来のイノベーターへの知識スピルオーバーを考慮しないため、R&D投資が過小になる。
(3)ビジネス盗取効果(Business-stealing effect):民間R&D企業は、自分たちのイノベーションが他者のレントを破壊することを内部化しないため、R&D投資が過大になる。
どの効果が支配的かは、パラメータ値、特にイノベーションのサイズに依存する。イノベーションが大きいほど(γが大きいほど)、ビジネス盗取効果は相対的に小さくなる。なぜなら、大きなイノベーションは新しい市場を創造する要素が強く、既存市場を奪うだけではないからである。
3.4 モデルの拡張と一般化
基本モデルは、その後の研究で様々な方向に拡張された。アギオンとハウィット自身、および他の研究者たちは、以下のような拡張を行った:
3.4.1 内生的イノベーションサイズ
基本モデルではイノベーションのサイズγが外生的に与えられているが、これを内生化することで、企業がどの程度の品質向上を目指すかという意思決定を分析できる。分析の結果、ビジネス盗取効果は、イノベーションのサイズも過小にする傾向があることが示された。
3.4.2 競争と産業組織
モデルを拡張して、複数企業間の競争を導入することで、市場構造とイノベーションの関係を分析できる。特に重要な発見は、競争とイノベーションの間に逆U字型の関係が存在することである(Aghion et al., 2005)。
独占:1つの企業が市場を支配している状態。競争相手がいないため、高い価格を設定でき、大きな利益(レント)を得られます。
完全競争:多数の企業が同質の製品を販売し、価格は市場メカニズムで決まる状態。どの企業も超過利潤を得られません。
寡占:少数の企業が市場を支配している中間的な状態。
競争が非常に低い場合(独占に近い状態)、競争を高めることはイノベーションを促進する(「脱出競争効果」)。これは、企業が競争相手から逃れるために、より良い技術を開発しようとするからです。
しかし、競争が既に高い場合、さらなる競争の激化はイノベーションのインセンティブを減少させる(「シュンペーター効果」)。なぜなら、完全競争に近づくと、イノベーションに成功しても得られるレントが小さくなり、高コストのR&D投資に見合わなくなるからです。
3.4.3 企業ダイナミクス
クレット-コータム(Klette-Kortum, 2004)は、アギオン-ハウィットのフレームワークを拡張し、企業が複数の製品ラインを持ち、イノベーションによって成長するモデルを構築した。このモデルは、以下の実証的事実を説明できる:
- 企業規模分布の高度な歪み
- 企業規模と企業年齢の正の相関
- 小企業の高い退出率
- 生き残った小企業の高成長率
4. 後続研究の展開:シュンペーター的成長理論の発展
4.1 フロンティアへの距離理論
アギオン、アセモグル、ジリボッティ(Acemoglu, Aghion, and Zilibotti, 2006)による「フロンティアへの距離(distance to frontier)」理論は、シュンペーター的成長理論の最も重要な拡張の一つである。
4.1.1 基本的アイデア
この理論の中心的洞察は、最適な成長戦略は、その国が世界技術フロンティアからどれだけ離れているかに依存するということである。
- 技術の模倣と吸収が主要な成長源:既に存在する先進技術を学び、導入することで成長できる
- 投資ベースの戦略が効果的:工場や設備への投資で、既存技術を活用した生産を拡大
- ある程度の規制や保護政策が正当化される可能性:幼稚産業を育成し、技術を習得する時間を稼ぐ
フロンティアに近い国(先進国):
- 最先端のイノベーションが必要:模倣する対象がないため、自ら新技術を生み出さなければならない
- 競争、淘汰、参入が重要:新しいアイデアを持つ企業が市場に参入し、古い企業を駆逐する創造的破壊が必要
- 開放的で柔軟な制度が不可欠:規制が少なく、失敗を許容し、資源が非効率な企業から効率的な企業へ迅速に移動できる環境
4.1.2 政策含意
この理論は、なぜ一部の国が「中所得の罠」に陥るのかを説明する。
アルゼンチンのような国は、資本蓄積と技術的キャッチアップ(先進国の技術を学んで追いつくこと)によって成長したが、フロンティアに近づいた後、イノベーション型経済への移行に失敗した。つまり、「模倣モード」から「創造モード」への制度変革ができなかったのです。
実証研究(Aghion et al., 2009; Vandenbussche, Aghion, and Meghir, 2006)は、以下を示している:
- フロンティアに近い国では、高等教育が成長に対してより強い正の効果を持つ(新しいアイデアを生み出す研究者が必要)
- フロンティアから遠い国では、初等・中等教育が相対的に重要(既存技術を使いこなす労働者が必要)
- 株式市場の発展は、フロンティアに近い国でより成長促進的である(不確実性の高いイノベーションにはリスクマネーが必要)
4.2 民主主義と経済成長
アギオンらの研究は、政治制度と経済成長の関係にも拡張された。重要な洞察は、民主主義がイノベーション主導の成長に重要であるということである。
その理由は:
(1)参入障壁の削減:民主主義は、既得権益による新規参入の妨害を抑制する。
(2)創造的破壊の容認:民主的制度は、経済的レントだけでなく政治的権力をも脅かす新しいイノベーションに対する抵抗を減らす。
(3)社会的流動性:民主主義は、個人の職業が親の地位によって決定されない社会的流動性を促進する。
実証研究(Aghion et al., 2008, 2016)は、民主化が長期的な経済成長を促進することを示している。
4.3 技術波動と不平等
シュンペーター的成長理論は、技術変化の波動的性質と、それが所得分配に与える影響を分析するためにも拡張された。
ヘルプマン-トラジテンベルク(Helpman and Trajtenberg, 1998)は、「汎用技術(General Purpose Technology, GPT)」の概念を導入した。
- 蒸気機関:製造業、鉱業、交通(鉄道、蒸気船)など多分野に応用
- 電気:照明、動力、通信など、ほぼすべての産業を変革
- コンピューター:計算、情報処理、通信、デザインなど幅広く活用
- AI:現在、医療診断から自動運転、創薬、金融まで多様な分野で応用が進行中
GPTの導入期には:
- 一時的な生産性の低下:新技術の使い方を学ぶ期間(学習曲線)があるため、導入直後は生産性が下がることがある。例えば、工場に電気モーターを導入した当初、作業員が使い方に慣れるまで生産効率が落ちた。
- 技能プレミアムの上昇:新技術を使いこなせる高技能労働者の需要が急増し、その賃金が上昇する。一方、旧技術に依存していた労働者の賃金は停滞または下落。
- 所得不平等の拡大:高技能労働者と低技能労働者の賃金格差が広がる。
しかし、GPTが完全に普及すると、これらの効果は緩和される。新技術が標準化され、教育システムが対応し、多くの労働者が新技術を使えるようになると、技能プレミアムは低下する傾向がある。
4.4 グリーン成長とイノベーション
近年、アギオンらは気候変動への対応とイノベーション主導の成長の関係を研究している。重要な発見は、「ダーティ」技術から「クリーン」技術への転換は、適切な政策があれば成長を犠牲にせずに達成できるということである(Aghion et al., 2016)。
カーボン税や再生可能エネルギー補助金などの政策は、イノベーションの方向を変え、クリーン技術の開発を促進できる。実証研究は、自動車産業において、環境規制が実際にクリーン・イノベーションを促進したことを示している。
5. モキイアの歴史的研究とその現代的意義
5.1 『富のてこ』:技術創造性の経済学
モキイアの1990年の著作『富のてこ(The Lever of Riches)』は、技術変化の経済史における古典的著作となった。この本で彼が提起した重要な区別は、「マクロ発明(macro-invention)」と「マイクロ発明(micro-invention)」の区別である。
5.1.1 マクロ発明とマイクロ発明
マクロ発明:全く新しい技術的原理に基づく革命的発明。例:蒸気機関、内燃機関、電気、コンピューター。これらは経済的要因では予測できない。
マイクロ発明:既存技術の漸進的改善。アダム・スミスが強調した分業と専門化による生産性向上がこれに該当する。
モキイアの洞察は、持続的成長には両方が必要だが、マクロ発明を継続的に生み出すメカニズムが決定的に重要だということである。そして、そのメカニズムこそが、命題的知識と処方的知識の相互作用なのである。
5.2 『アテナの贈り物』:知識経済の歴史的起源
2002年の『アテナの贈り物(The Gifts of Athena)』において、モキイアは産業革命とその後の持続的成長の起源をより詳細に分析した。
5.2.1 認識基盤の重要性
モキイアは、技術の「認識基盤(epistemic base)」の重要性を強調する。
認識基盤とは、ある技術がなぜ機能するかについての理解の深さである。
この例が示すように、深い科学的理解なしには、技術は孤立したものに留まり、累積的進歩は起こらない。たまたま成功した技術を、なぜ成功したのか理解せずに使っているだけでは、それを他の分野に応用したり、さらに改良したりすることができないのです。
5.2.2 アクセスコストの低下
モキイアのもう一つの重要な洞察は、知識へのアクセスコストの役割である。
産業啓蒙は、単に科学的知識が増加しただけでなく、その知識が社会全体にアクセス可能になったことが重要だった。知識がごく一部のエリート学者の間だけで共有されている状態では、イノベーションは限定的にしか起こりません。
18世紀から19世紀にかけて、以下のような制度的変化が起こった:
- 科学雑誌の創刊と普及:研究成果が印刷物として広く流通するようになった
- 公開講座と実演の増加:科学者が一般市民や職人に向けて実験を公開し、知識を伝達
- 技術図書館の設立:誰でも技術書や設計図にアクセスできる公共施設
- 産業展示会の開催:最新の機械や製品が一堂に展示され、技術交流の場となった
- 特許制度の整備:発明を公開する代わりに一定期間の独占権を与える仕組み。これにより技術情報が秘密にされず、他者が学べるようになった
これらの制度は、知識の「公共財」としての性質を強化し、イノベーションの社会的リターンを高めた。
5.3 『成長の文化』:文化と制度の役割
モキイアの2016年の著作『成長の文化(A Culture of Growth)』は、文化的要因の役割をさらに掘り下げた。彼は、なぜヨーロッパが中国やイスラム世界を追い越したのかという古典的問題に、文化的説明を提供する。
重要なのは、ヨーロッパの政治的分裂が、競争的な知識市場を生み出したことである。知識人は、自分のアイデアが受け入れられない場所から、より歓迎される場所へ移動できた。これにより、思想の多様性が保たれ、イノベーションが促進された。
6. 人工知能と経済成長:現代への適用
6.1 AIと成長理論
アギオン、ベンジャミン・ジョーンズ、チャールズ・ジョーンズ(Aghion, Jones, and Jones, 2017)は、人工知能が経済成長に与える影響を、シュンペーター的成長理論の枠組みで分析した。
6.1.1 AIの二面性
AIは、経済成長に対して相反する効果を持つ可能性がある:
成長促進効果:
- 研究プロセスの自動化:データ収集、文献レビュー、実験設計などのタスクをAIが支援
- アイデア生産関数の改善:AIが新しい組み合わせを発見する能力
- 知識の蓄積と普及の加速
潜在的リスク:
- 創造的破壊の加速による人的資本の陳腐化
- 所得分配への影響
- 市場集中と競争の減少
6.1.2 シンギュラリティの可能性
モデルは、完全自動化が実現した場合、理論的には「シンギュラリティ」(有限時間での無限の所得)が発生する可能性を示唆する。
ただし、これは以下の条件に依存する:
(読み方:ジー プロポーショナル・トゥ エーのファイ乗)
∝ は「比例する」という記号
この式の意味:経済成長率(g)が、既存の知識ストック(A)のφ(ファイ)乗に比例する、という関係を表しています。
ここで、φ(ファイ)> 0である必要がある。φは、既存の知識ストックが新しいアイデアの生産を促進する程度を表す。
- φ > 0の場合:知識が増えるほど、新しい知識を生み出すのが容易になる。「巨人の肩の上に立つ」効果。この場合、成長は加速し続ける可能性がある。
- φ = 0の場合:既存の知識量は新しい発見の容易さに影響しない。成長率は一定。
- φ < 0の場合:知識が増えるほど、新しい発見は困難になる。「低く垂れ下がった果実」は既に収穫され、残っているのは高い場所の果実だけ。成長は減速する。
しかし、多くの実証研究は、平均的にφ ≤ 0である可能性を示唆している。これには2つの理由がある:
(1)釣り尽くし効果(Fishing out effect):簡単に発見できるアイデアは既に発見され尽くしており、残っているのは困難なアイデアだけ。
(2)知識の重荷(Burden of knowledge):既存の知識が膨大になりすぎて、研究者が最前線に到達するまでに長い時間がかかる。例えば、物理学で博士号を取るのに必要な学習期間は、19世紀より21世紀の方がはるかに長い。
つまり、イノベーションは時間とともに困難になっている可能性がある。この場合、AIによる完全自動化が実現しても、シンギュラリティは起こらないかもしれない。
6.2 モキイアのAI観
モキイアは、AIに対して楽観的な見方を持っている。ノーベル賞受賞後の記者会見で、彼は次のように述べた:
彼の理論的枠組みでは、AIは命題的知識と処方的知識の間のフィードバックループを強化する可能性がある。AIは:
- 膨大なデータから新しいパターンを発見し、命題的知識を拡大する
- 科学的理解を実用的アプリケーションに迅速に変換する
- 処方的知識の有効性を科学的原理に基づいて評価する
6.3 政策的課題
アギオンは、AI時代の成長政策について、以下の点を強調している:
(1)競争政策の重要性:AI分野では、既に市場に参入している大企業が有利になる傾向がある。新規参入を促進し、過度の市場集中を防ぐ政策が必要。
(2)開放性の維持:保護主義的政策は、AIの発展とその経済的便益を阻害する。
(3)労働者の保護:特定の職を保護するのではなく、労働者自身を保護し、より生産的な職場への移動を容易にする政策が重要。
(4)教育システムの変革:AI時代には、創造性、批判的思考、適応能力がますます重要になる。
7. 政策含意と実践的応用
7.1 イノベーション政策の設計
シュンペーター的成長理論は、イノベーション政策に関する豊富な洞察を提供する。
7.1.1 競争政策とイノベーション
逆U字型の関係の発見(Aghion et al., 2005)は、競争政策に重要な含意を持つ:
| 市場の状況 | 競争の効果 | 推奨政策 |
|---|---|---|
| 低競争(独占的) 例:規制で守られた公共事業、国有企業が支配的な産業 |
競争増加がイノベーションを促進 企業は競合から逃れるために技術開発に投資 |
規制緩和、参入障壁の削減 |
| 中程度の競争 例:自動車産業、製薬産業など |
最適なイノベーション水準 競争圧力とイノベーション報酬のバランスが取れている |
現状維持、微調整 |
| 高競争(完全競争に近い) 例:農産物市場、一部のコモディティ産業 |
競争がイノベーションを阻害 イノベーションに成功しても超過利潤が得られず、R&Dコストを回収できない |
知的財産権の強化、R&D補助金 |
7.1.2 教育政策
フロンティア距離理論は、教育政策に関する重要な指針を提供する:
後進国:
先進国:
- 高等教育とSTEM(科学・技術・工学・数学)分野への投資
- 大学の研究能力の強化
- 産学連携の促進
7.1.3 金融政策
金融システムの発展も、経済発展段階によって異なる効果を持つ:
後進国(フロンティアから遠い):銀行融資が重要
先進国(フロンティアに近い):株式市場とベンチャーキャピタルが重要
7.2 モキイアの政策的洞察
モキイアの歴史的研究からは、以下の政策的教訓が得られる:
7.2.1 知識インフラへの投資
政府は、知識の創造と普及を促進する公共財に投資すべきである:
7.2.2 開放性の維持
産業啓蒙の教訓は、知的開放性と国際的な知識交流の重要性である。保護主義や孤立主義は、長期的には経済成長を阻害する。
7.2.3 制度の柔軟性
技術変化は既得権益を脅かす。したがって、変化を容認し、創造的破壊を許容する社会・政治制度が不可欠である。これには:
- 強固な財産権保護(ただし永続的な独占ではない)
- 起業の容易さ
- 破産法制の整備
- 社会的セーフティネット(失業保険、再訓練プログラムなど)
8. 批判的評価と今後の研究課題
8.1 理論的課題
受賞者の研究は画期的だが、いくつかの限界も指摘されている。
8.1.1 イノベーションの測定
理論モデルでは、イノベーションは比較的単純に表現されるが、現実のイノベーションは極めて多様で複雑である。特許データや論文数などの測定指標は、イノベーションの質を完全には捉えられない。
8.1.2 知識の非競合性
アイデアの非競合性(one person's use does not diminish another's)は、理論の重要な前提だが、実際には tacit knowledge(暗黙知)の存在により、知識の移転には限界がある。
8.1.3 集計の問題
ミクロレベルの創造的破壊が、どのようにマクロレベルの安定的成長に集約されるかについては、なお研究の余地がある。
8.2 実証的課題
8.2.1 因果推論の困難さ
イノベーションと成長の因果関係を特定することは、依然として困難である。多くの変数が内生的に決定されるため、政策効果の正確な推定には高度な計量経済学的手法が必要。
8.2.2 長期データの不足
モキイアの歴史的研究は示唆に富むが、系統的な定量データは19世紀以降に限られる。それ以前の時代については、断片的な証拠に頼らざるを得ない。
8.3 今後の研究方向
8.3.1 デジタル経済とプラットフォーム
デジタル技術とプラットフォーム経済の台頭は、新たな理論的課題を提起している。ネットワーク効果、データの役割、アルゴリズムによる調整などは、従来の枠組みでは十分に捉えられない。
8.3.2 グローバル・バリューチェーン
現代の イノベーションは、単一国ではなくグローバル・バリューチェーンの中で行われることが多い。国際分業とイノベーションの関係は、重要な研究テーマである。
8.3.3 気候変動と持続可能性
イノベーション主導の成長と環境持続可能性をどう両立させるかは、21世紀の最重要課題の一つである。「グリーン成長」の可能性と限界についての研究は緒に就いたばかりである。
8.3.4 AIと人間の補完性
AIが人間労働を代替するのか補完するのかは、今後の成長と分配を決定する。この問題についての理論的・実証的研究が急務である。
9. 日本への含意
9.1 「失われた30年」の再解釈
日本の長期停滞は、シュンペーター的成長理論の観点から再解釈できる。
9.1.1 フロンティアでの苦闘
日本は1980年代に技術フロンティアに到達したが、その後の成長は鈍化した。アギオン-アセモグル-ジリボッティ理論によれば、これはフロンティアでの成長に必要な制度変革が不十分だったことを示唆する。
具体的には:
- 企業の参入・退出が硬直的(終身雇用制度、系列関係)
- 資源配分の効率性が低い(生産性の低い企業の存続)
- リスクマネーの不足(銀行中心の金融システム)
9.1.2 知識創造システムの課題
モキイアの枠組みでは、日本の課題は:
- 命題的知識(基礎科学)と処方的知識(応用技術)の分断
- 知識の国際的流動性の低さ(言語障壁、閉鎖的な学術コミュニティ)
- 起業文化の欠如(失敗に対する寛容さの不足)
9.2 政策提言
9.2.1 労働市場改革
創造的破壊を促進するには、労働者を保護しつつ、労働市場の流動性を高める必要がある:
- 解雇規制の柔軟化と失業保険の拡充のパッケージ
- 職業訓練・再教育プログラムの充実
- 新規企業での雇用機会の創出
9.2.2 大学改革と産学連携
命題的知識と処方的知識の架橋には:
9.2.3 スタートアップ・エコシステム
イノベーションを担う新規企業を育成するには:
- ベンチャーキャピタルの育成
- 起業に対する文化的障壁の除去
- 規制の柔軟化(特にデジタル分野)
10. 結論:イノベーション主導の成長の未来
2025年のノーベル経済学賞は、経済成長の本質についての我々の理解を根本的に変えた研究者たちを称えるものである。ジョエル・モキイア、フィリップ・アギオン、ピーター・ハウィットの研究は、イノベーションが単なる成長の副産物ではなく、持続的繁栄の中心的エンジンであることを示した。
彼らの研究からは、いくつかの重要な教訓が得られる:
第一に、経済成長は自動的に起こるものではない。それは、知識の創造と普及を促進する制度、変化を受け入れる文化、そして創造的破壊を許容する政治経済システムに依存する。
第二に、一つの成長戦略がすべての国に適しているわけではない。最適な政策は、その国が世界技術フロンティアからどれだけ離れているかに依存する。
第三に、イノベーションは両刃の剣である。それは生産性と生活水準を向上させるが、同時に既存の雇用や企業を破壊する。したがって、社会的セーフティネットと労働者支援政策が不可欠である。
第四に、知識は非競合的な公共財であり、その創造と普及には公的支援が正当化される。基礎研究、教育、知識インフラへの投資は、長期的成長の基盤である。
21世紀に入り、世界経済は新たな課題に直面している。人工知能の急速な発展、気候変動への対応、パンデミックの経験、そして地政学的緊張の高まり。これらの課題に対処するには、イノベーションの力が不可欠である。
しかし、ノーベル委員会のジョン・ハスラー委員長が警告したように、「経済成長は当然のものと考えてはならない。創造的破壊を支える仕組みを維持しなければ、我々は停滞に逆戻りする」。
モキイア、アギオン、ハウィットの研究は、イノベーション主導の成長が可能であるだけでなく、適切な制度と政策があれば持続可能であることを示している。彼らの知的遺産は、より繁栄し、より適応力のある経済を構築しようとする政策立案者、企業家、そしてすべての市民に貴重な指針を提供している。
今後の研究と政策実践が、この豊かな理論的基盤の上にさらなる進歩を築くことを期待したい。イノベーションの未来は、我々自身の手の中にある。
参考文献
本稿の執筆にあたり、2025年ノーベル経済学賞に関する各種公式資料、受賞者の主要著作・論文、および関連する学術研究を参照した。