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【衝撃の事実】あなたの仕事観は江戸時代に作られた?渋沢栄一や松下幸之助も学んだ「石門心学」の正体とは

序論:国家を築き、そして消えた哲学

かつて日本には、国民的な思想運動として絶大な影響力を誇った哲学があった。その名は石門心学(せきもんしんがく)」。最盛期には、その教えを説く講舎(こうしゃ)と呼ばれる学びの場が全国に180か所以上も存在したという[1]。しかし今日、その創始者である石田梅岩(いしだばいがん)の名を知る者は少なく、石門心学という言葉自体、歴史の教科書の片隅に追いやられている。これは一体なぜなのか。一世を風靡した思想は、なぜ現代人の記憶からかくも綺麗に消え去ってしまったのか。

本記事は、この中心的な謎を解き明かすことを目的とする。「町人の哲学」とも呼ばれたこの思想が、具体的にどのようなものであったのか[2]。なぜそれほどまでに爆発的な影響力を持ち得たのか。そして最も重要な点として、その教えを説く組織が姿を消した後も、その原理原則が「静かなる遺産」として、いかに現代日本の企業倫理、職業観、そして社会規範の内に生き続けているのかを徹底的に調査・分析する[3]

第一部 町人哲学の誕生

第一章 変動する社会:石田梅岩の世界

石田梅岩が生きた17世紀末から18世紀半ばにかけての江戸時代は、静的な安定の裏で、社会構造が大きく変動していた時代であった。公式のイデオロギーは、武士を頂点とし、農工商と続く厳格な身分制度士農工商)に基づいていた[2]。しかし、その実態は大きく異なっていた。

幕藩体制下において、武士階級は俸禄として受け取る米を貨幣に換える必要に迫られたため、社会には高度な市場経済が発達した。大坂や江戸といった大都市では、全国的な流通網が確立され、三井家、住友家、鴻池家といった豪商が台頭し、莫大な資本を蓄積していった。彼らは商品の流通を支配するだけでなく、財政難に苦しむ大名や幕府に資金を貸し付ける「大名貸」を行うなど、経済的には支配階級である武士を凌駕する力を持つに至っていた。

しかし、この経済的実権とは裏腹に、商人は思想的に最も蔑まれた存在であった。当時の支配的なイデオロギーであった朱子学の価値観では、米を生産する農民こそが社会の基盤であり、商人は自ら何も生産せず、物の売買だけで利益を得る「非生産的」で卑しい存在と見なされていたのである[2]。この状況は、商人階級に深刻なジレンマをもたらした。彼らは経済的に社会に不可欠な存在でありながら、その職業や生き方を肯定する道徳的な正当性を与えられていなかった。富と力は手にしたが、社会的尊敬と自己肯定感、そして競争の激しい市場で指針となるべき倫理観を欠いていたのである。

このような時代背景こそが、新たな哲学が生まれる土壌であった。武士階級のために整備された朱子学は、町人の生き方を肯定する言葉を持たなかった[2]徳川幕府が築いた社会システムが、皮肉にも商業経済を発展させ、その経済の担い手である商人階級の力を増大させた。しかし、その公式イデオロギーは彼らの存在そのものを否定するという深刻な矛盾を抱えていた。この経済的現実と旧弊な社会理念との間の耐え難い不協和音を解消するため、商人自身の立場から、その社会的役割を肯定し、日々の営みに誇りと意味を与える新しい思想の登場は、もはや必然であった。石門心学は、まさにこの歴史的要請に応える形で誕生したのである。

第二章 聖人の形成:石田梅岩の生涯と悟り

石門心学創始者石田梅岩(1685-1744)は、まさしく時代の矛盾を体現し、それを乗り越えようとした人物であった[4]。彼は貞享2年(1685年)、丹波国(現在の京都府亀岡市)の農家の次男として生を受けた[4]。農家の次男であった彼は、家を継ぐことができず、11歳で京都の商家へ丁稚奉公に出る。しかし、この最初の奉公先は経営が傾いており、数年で故郷へ戻ることになる。その後、23歳で再び京都の呉服商・黒柳家に奉公するまでの間、彼は農作業に従事した[4]。この「鄙(ひ)」(田舎)と「都(みやこ)」の両方での生活経験が、後に彼の主著『都鄙問答』に結実する、複眼的な思考の礎となった[5]

梅岩は幼少期から、実直な父の影響を受け、強い誠実さを持っていたと伝えられる。同時に、「理屈っぽい」と評されるほど探究心の強い子供であり、物事の本質を常に問う性格であった[4]。その知的好奇心は、商人として働く傍ら、神道、仏教、儒教といった学問を独学で探求する原動力となった[1]。彼は特定の師につかず、自らの実践と思索を通じて道を求めた。

その求道の旅は、30代半ばで思想的な迷いを生じさせ、生涯唯一の師である小栗了雲(おぐりりょううん)との出会いへと彼を導いた[1]。しかし、彼の思想の核心となる決定的な転機は、師の死後、病気の母を看病するために帰郷していた際に訪れた個人的な「開悟(かいご)」、すなわち禅宗における悟りに似た体験であった。この「自らの性(しょう)を知る」体験、つまり人間が生まれ持つ本性は、身分や職業に関わらず皆同じであり、その本性に従って生きることが人としての正しい道であるという気づきが、彼の哲学の根幹を形成した[1]

45歳になった梅岩は、京都の自宅で講席を開き、自らの思想を人々に説き始めた[4]。彼の講義は、当時の常識を覆すものであった。席料は無料で、誰かの紹介も不要、そして武士、町人、農民、女性、老人、子供といった身分、性別、年齢を一切問わなかったのである[1]。当初、聴衆は数えるほどしかいなかったが、梅岩の誠実な人柄と、その教えの持つ実践的な説得力は、次第に人々の心を捉えていった。彼の思想の集大成である『都鄙問答』や『倹約斉家論』は、60歳で生涯を閉じる直前に刊行された[4]

第二部 石門心学の核心

第三章 倫理革命:利益の正当化と労働の再定義

石門心学が日本の思想史に投じた最も大きな波紋は、商業活動とその利益を道徳的に肯定した点にある。これは、当時の社会通念を根底から覆す、まさに倫理における革命であった。

その核心をなすのが、「商人の売利(ばいり)は士の禄(ろく)に同じ」という画期的な言葉である[4]。利益を上げることは卑しい行為とされていた社会において、梅岩は、商人が商売によって得る正当な利益(売利)は、武士が藩主から受け取る俸禄(禄)と本質的に同じものであると断言した。彼の論理は明快であった。社会は、士・農・工・商という四つの身分(職分)がそれぞれの役割を果たすことで成り立っている。武士が統治、農民が生産を担うように、商人は社会に不可欠な「物資の流通」という機能を担っている[1]。したがって、彼らの労働は社会に貢献する正当な「職分(しょくぶん)」であり、そこから得られる利益は、社会から公に認められた「天下御免の禄」に他ならないと主張したのである。

ただし、梅岩は無条件の利益追求を肯定したわけではない。彼は「正当な利益(直き利)」と「不正な利益(不当の利)」を厳格に区別した。顧客を騙したり、過剰な利益をむさぼる「二重の利」は、商人の社会的役割からの逸脱であり、武士が主君を裏切る不忠にも等しいと厳しく戒めた[4]。利益はあくまで、正直な社会的奉仕の「結果」として得られるべきものであり、それ自体が目的であってはならないとした。

この倫理観を支える行動規範が、「真の商人は先も立ち、我も立つことを思うなり」という原則である[6]。これは、現代でいう「ウィン・ウィン」やステークホルダー(利害関係者)重視の考え方の先駆けと言える[6]。商売においては、まず相手、すなわち顧客の利益や満足(先も立ち)を第一に考えるべきである。自分自身の成功や利益(我も立つ)は、顧客への価値提供を誠実に果たした結果として、自ずとついてくるものだと説いた。これは、ゼロサム競争ではなく、顧客との共存共栄を目指す哲学であり、高品質な商品を適正な価格で提供し、取引において誠実であることが求められた[6]

このように、石門心学は単に利益を肯定しただけではなかった。利益を得る権利を商人に与える一方で、その権利行使に「社会への貢献」と「倫理的誠実さ」という厳しい条件を課した。利益の正当化という「解放」と、厳格な倫理という「規律」を一体化させることで、暴走しがちな市場経済に内的な道徳的羅針盤を与えようとしたのである。これは、単なる強欲に陥ることなく、持続可能な発展を目指す、倫理的な資本主義の設計図であった。今日の企業の社会的責任(CSR)や、持続可能な経営といった概念の思想的源流がここに見出せる[3][7]

第四章 心の三本柱:正直・勤勉・倹約

石田梅岩は、商人が倫理的な商業活動を実践するための具体的な行動指針として、「正直」「勤勉」「倹約」という三つの徳目を重視した。これらは相互に関連し合い、心学の倫理体系を支える三本の柱となっている。

第一の柱は「正直(しょうじき)」である。これは単に嘘をつかないということ以上に、自らの本性(性)と天地自然の理に従って、ありのままに生きることを意味した[4]。梅岩によれば、正直さを妨げる最大の要因は「私欲(しよく)」、すなわち利己的な欲望である。彼は、この私欲を克服し、公正で透明性のある行動を貫くことの重要性を説いた。その教えを象徴するのが、『都鄙問答』に記された「油と水」のたとえである。一滴の不正な利益(油)が、一升の清廉な利益(水)の器全体を汚染し、すべてを不浄なものにしてしまう[4]。この鮮やかな比喩は、いかに小さな不正であっても、事業全体の信頼性を根底から破壊してしまうという真理を鋭く突いている。

第二の柱は「勤勉(きんべん)」である。心学において労働は、金銭を得るためだけの手段ではない。それは自己を磨き、社会に貢献するための「修養」の一環であった[6]。自らに与えられた職分(しょくぶん)に専心することこそが、「道を誤らないため」の最良の方法だとされた。梅岩は、商人が自身の商売に打ち込む姿を、武士が主君に忠誠を尽くす姿になぞらえ、商業労働の道徳的価値を武士のそれと同等のレベルにまで引き上げた[4]

そして第三の柱が、最も誤解されやすい「倹約(けんやく)」である。梅岩は、倹約を単なる「ケチ」とは明確に区別した[4]。その本質は、金銭を貯め込むことではなく、「物の効用を尽くすこと」、すなわち資源を尊重し、無駄を徹底的に排除し、分相応の生活を送ることで、家業の長期的な持続可能性を確保することにあった[4]。倹約によって生み出された余剰は、自己の贅沢のためではなく、家族や社会のために有効に活用されるべきものと考えられた。

第三部 一室から全国運動へ

第五章 民衆哲学の技法:教えの普及

石田梅岩の思想が、一介の町人哲学者の思索にとどまらず、全国的な民衆運動へと発展した背景には、その革新的な教授法があった。心学が絶大な支持を得た最大の要因は、「道話(どうわ)」と呼ばれる、その独特のコミュニケーション手法にある[8]

道話とは、道徳的な教えを、日常生活から採られた身近なたとえ話や逸話を用いて説く講釈の形式である。難解な学術用語を避け、ユーモアや諧謔を交えながら語られる物語は、文字の読めない庶民から学問の素養がある武士まで、あらゆる階層の人々にとって理解しやすく、心に響くものであった[1]。例えば、後の心学者・中沢道二の道話は、聴衆を笑わせながら考えさせ、時には数千人もの人々を魅了したと記録されている[8]。このような手法により、「性を知る」といった抽象的な哲学的概念が、具体的で記憶に残りやすい形で民衆に届けられたのである。

また、心学の普及を後押ししたもう一つの要因は、その寛容な思想的統合性(シンクレティズム)である。梅岩とその弟子たちは、神道、仏教、儒教という、当時日本社会に深く根付いていた三つの教えの原理を巧みに取り入れた。彼らはこれらの宗教を対立するものとしてではなく、同じ一つの「心」を磨くための、それぞれ異なる道具(ツール)として位置づけた[2]。このアプローチにより、特定の宗派に属する人々も、自らの信仰と矛盾することなく心学の教えを受け入れることができ、その門戸は極めて広いものとなった。

そして、この運動を物理的に支えたのが、「講舎(こうしゃ)」と呼ばれる全国的な講義所のネットワークであった[1]。講舎は単なる学校ではなく、地域社会における道徳教育と自己修養の中心地として機能した。最盛期には、その数は全国で180を超え、心学の教えを全国津々浦々にまで浸透させるための強力なインフラとなったのである[1]

第六章 梅岩の後継者たち:黄金時代の設計者

石田梅岩が蒔いた思想の種は、彼の死後、卓越した弟子たちの手によって見事に花開き、石門心学は黄金時代を迎える。もし梅岩が「求道者」としての創始者であったなら、彼らはその教えを社会に根付かせる「組織者」であり「伝道者」であった。

その筆頭が、手島堵庵(てじまとあん、1718-1786)である。堵庵は、梅岩の思想を体系化し、一大社会教化運動へと組織した最大の功労者と言える[1]。彼は、五楽舎、修正舎、明倫舎といった最初の公式な講舎を設立し、心学運動の制度的基盤を築いた。さらに特筆すべきは、彼の教育者としての手腕である。堵庵は、成人男性だけでなく、当時教育の機会が限られていた女性や子供たちのための教訓書や教材を開発し、心学の教えを社会のあらゆる層に届けようと努めた[1]

堵庵の門下から現れたのが、関東への偉大な伝道者、中沢道二(なかざわどうに、1725-1803)である。道二は、心学の教えを日本の政治的中心地であった江戸へと持ち込み、「参前舎(さんぜんしゃ)」という講舎を設立して、関東における心学普及の礎を築いた[8]

道二の功績の中でも最も注目すべきは、商人や庶民のための哲学であった心学を、支配階級である武士層にまで浸透させたことである。彼の徳の高さと巧みな道話は、多くの大名や旗本の心を捉え、播州山崎藩主をはじめとする複数の藩主が彼の門下に入った[8]。老中・松平定信も彼の教えに感銘を受け、無宿人などを更生させるための施設「人足寄場」での教諭を依頼したほどであった[8]。これは、一個の「町人の哲学」が、国家の公的な教化政策の一翼を担うまでに社会的地位を高めた画期的な出来事であり、石門心学がその影響力の頂点に達した瞬間であった。

第七章 必然的な衰退と永続する刻印

栄華を極めた石門心学運動も、19世紀に入ると徐々にその勢いを失い、明治維新を境に、教団としての組織は事実上、姿を消していく。その衰退には、いくつかの複合的な要因があった。

第一に、内部からの停滞と硬直化が挙げられる。後の時代の心学者は、梅岩が持っていた探求の精神よりも、既存の道徳を説き、社会の現状維持を目的とする教化主義的な側面を強めていった[9]。また、神道的な解釈を重んじる関東の系統と、朱子学的な解釈を重んじる京都の系統との間で思想的な対立が生じるなど、内部の結束力が弱まったことも衰退の一因であった[9]

第二に、外部からの競合の出現である。幕末期には、二宮尊徳が創始した報徳教(ほうとくきょう)のような、経済改革と道徳教化を結びつけた新たな運動や、天理教黒住教といった新宗教が次々と誕生し、民衆の心を掴んでいった[9]。これらの新しい運動の前に、心学は次第にその魅力を失っていった。

そして決定打となったのが、明治維新による社会全体の変革であった。新政府は、西洋の知識と国家神道を軸とした新たな国民教化の方針を打ち出した。その中で、江戸時代の思想である心学は「古いもの」と見なされるようになった。政府の宗教政策により、多くの講舎は神道の一派として再編されるか、閉鎖に追い込まれ、一部は新しい小学校の校舎として転用されるなどして、その組織的基盤を失った。

しかし、組織としての石門心学が消滅したことは、その思想の死を意味しなかった。むしろ、その核心的な価値観――正直、勤勉、倹約、仕事を通じた社会貢献――は、あまりにも日本の社会に深く浸透していたため、制度の崩壊後も生き残った。それらの価値観は、もはや「心学」という特定の看板を必要とせず、明治政府が推進した修身教育や教育勅語の中に巧みに取り込まれ、近代日本の国民道徳の基層を形成する一部となったのである[9]

時代区分 年代 中心人物 主な出来事・特徴 主な著作
創始時代 1729-1763年 石田梅岩 自宅での無料講義開始。「性を知る」ことを重視。当初の聴衆は少数だが熱心。 『都鄙問答』、『倹約斉家論』
興隆時代前期 1764-1786年 手島堵庵 講舎ネットワークの設立。女性や子供向けの教化方法や教訓書の開発。運動の組織化。 『坐談随所』、『知心弁疑』
興隆時代後期(黄金時代) 1787-1803年 中沢道二、上河淇水 江戸への進出と参前舎設立。大名や武士階級への浸透。幕府の教化政策に採用される。 『道二翁道話』
停滞・分裂時代 1804-1829年 柴田鳩翁 思想の形式化、内部対立の顕在化。革新性の喪失。衰退の兆しが見え始める。 『鳩翁道話』
衰退・吸収時代 1830年-明治期 (なし) 報徳教や新宗教との競合。御用学問化。明治維新後の制度的崩壊。価値観は国民教育に吸収。 (なし)

第四部 現代日本への見えざる影響

第八章 日本ビジネスのDNA:「商人道」からCSR

石門心学の制度的命脈は明治時代に絶たれたが、その精神は形を変え、現代日本のビジネス倫理の深層に流れ続けている。その影響は、近代から現代に至る日本の名経営者たちの思想や、日本独自の企業文化の中に明確に見て取ることができる。

「日本資本主義の父」と称される渋沢栄一が提唱した「論語と算盤」という理念は、その代表例である。道徳(論語)と経済活動(算盤)の調和を目指すこの思想は、表面的には儒教に基づいているが、その根底にある「倫理と利益の両立」というテーマは、石門心学が切り開いた道を直接的に受け継ぐものであった。石田梅岩が商人階級のために倫理的正当性を与え、社会にその価値観を広めたからこそ、渋沢の思想が受け入れられる文化的土壌が醸成されていたのである。

松下幸之助稲盛和夫といった戦後の名経営者たちへの影響も指摘される[7]松下幸之助が梅岩の『都鄙問答』を直接読んだかについては議論があるが、たとえ直接的な知識がなくとも、彼らが「正直」「勤勉」「倹約」といった価値観を事業の根幹に据えたことは、彼らが石門心学によって深く形作られた文化の産物であったことを示唆している。

また、近江商人の経営哲学として名高い三方よし」(売り手よし、買い手よし、世間よし)も、心学の思想と深く共鳴している。梅岩の「先も立ち、我も立つ」という顧客第一・共存共栄の原則は、「三方よし」の精神と軌を一にする[10]。両者の直接的な因果関係については学術的な議論があるものの、石門心学が「三方よし」に代表されるような、ステークホルダー全体の幸福を追求する日本の商人道の倫理観を言語化し、社会に普及させる上で決定的な役割を果たしたことは間違いない。

この思想的伝統は、現代の日本企業における「企業の社会的責任(CSR)」の捉え方にも繋がっている[3][7]。欧米のCSRがしばしば慈善活動(フィランソロピー)として企業の外部で行われるのに対し、心学に源流を持つ日本的なCSR観は、むしろ本業そのものを通じて社会に貢献することを重視する傾向がある。優れた製品やサービスを提供し、安定した雇用を創出し、倫理的な商取引を行うこと自体が、最大の社会貢献であると考えるのである。

石門心学の核心理念 代表的な言葉 現代のビジネス・社会における類似概念 解説
商業の正当性 「商人の売利は士の禄に同じ」 利益の正当性、企業の社会的役割 利益は悪ではなく、社会に不可欠な機能(流通)を果たしたことに対する正当な報酬である。
共存共栄 「真の商人は先も立ち、我も立つ」 ウィン・ウィン戦略、ステークホルダー理論、顧客第一主義 顧客の成功と満足を優先することが、自社の持続的な成功の基盤となる。「三方よし」の精神と直結する。
倫理的基盤 「正直・勤勉・倹約」 企業倫理、コンプライアンス、リーンマネジメント 事業は信頼(正直)、価値創造(勤勉)、無駄の排除(倹約)という倫理的基盤の上に築かれるべきである。
社会貢献 「富の主は天下の人々なり」 企業の社会的責任(CSR)、公共善 企業が得た利益や富は、究極的には社会からの預かりものであり、社会全体の利益のために責任をもって管理・活用されるべきである。
労働と修養 「諸行即修行」 天職、生涯学習カイゼン 仕事は単なる生活の糧ではなく、人間的成長や人格陶冶のための主要な舞台である。

第九章 日本の労働倫理と社会構造

石門心学の影響は、ビジネスの世界にとどまらず、日本人の労働観や社会全体の気風にまで及んでいる。その教えは、日本版の「プロテスタント倫理」とも比較される、独特の勤労倫理を形成する上で重要な役割を果たした。

ドイツの社会学マックス・ヴェーバーは、その著書『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』の中で、禁欲的なプロテスタントの倫理が近代資本主義の精神を生み出したと論じた。彼らが「天職(Calling)」として世俗の仕事に励み、得た利益を贅沢に使うことなく再投資したことが、資本蓄積を可能にしたというのである。石門心学の教えは、これと驚くほど類似した構造を持つ。心学もまた、日々の仕事を「天職」あるいは「修行」と位置づけ、勤勉に働くことを奨励し、倹約によって得られた富の浪費を戒めた。

この心学が広めた価値観は、やがてその哲学的な背景から切り離され、世俗的な文化として日本社会に定着していった。現代の日本人が「勤勉実直」と評されることが多いのは、労働そのものに道徳的価値を見出すこの思想的伝統と無関係ではない。また、自らの仕事が社会全体への貢献であるという考え方は、個人の利益よりも集団の調和を重んじる労働倫理を育んだ。「働く」という言葉の語源の一つが「傍(はた)を楽(らく)にする」ことであるという解釈は、心学の持つ社会志向的な精神性と強く響き合う[6]

結論:失われた羅針盤の再発見

本記事は、かつて日本社会を席巻しながらも、現代ではその名を知る者も少ない石門心学の軌跡を追った。その歴史は、一つの思想が時代と社会の要請にいかに応え、いかにして国民的運動へと成長し、そしていかにしてその姿を消していったかを示す、壮大な物語である。

石門心学は、経済的実力と社会的地位の乖離に悩む江戸時代の商人階級に、自らの職業に誇りを持つための道徳的羅針盤を与えた。その教えは、利益の追求を肯定しつつも、それを「正直」「勤勉」「倹約」という厳格な倫理で律する、持続可能な商人道の哲学であった。「先も立ち、我も立つ」という共存共栄の理念は、その核心をなす。

しかし、その成功ゆえに、心学は衰退の道をたどる。体制に受け入れられ、その価値観が国民道徳として社会に広く吸収・同化された結果、独自の制度としての存在意義を失っていったのである。それは「死」ではなく、より大きな文化的生命体への「融合」であった。そのDNAは、日本的経営の理念、日本人の勤労観、そして高信頼社会を支える倫理観の中に、今なお静かに、しかし確実に生き続けている。

グローバル資本主義がその限界を露呈し、利益至上主義への反省から、企業の社会的責任や働くことの意味が世界的に問われている現代において、石門心学の思想は驚くべき今日的妥当性を持っている。倫理に基づいた経済活動、ステークホルダー全体の幸福、そして仕事を通じた自己実現というその教えは、21世紀の社会が直面する課題を乗り越えるための「失われた羅針盤」を我々に示してくれるかもしれない。

石田梅岩とその哲学を学ぶことは、単なる歴史研究ではない。それは、現代日本人が、自らが拠って立つ価値観の歴史的・哲学的ルーツを自覚し、未来への指針を見出すための、重要な文化的自己発見の旅なのである。

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参考文献
  1. Weblio辞書. 「石門心学とは? わかりやすく解説」. (参照 2024-06-27).
  2. 京都市. 「文化史19 石門心学」. (参照 2024-06-27).
  3. 熊本学園大学 機関リポジトリ. 「現代企業における石門心学」. (参照 2024-06-27).
  4. WEB歴史街道. 「石門心学の祖・石田梅岩~その生涯と思想、名言」. (参照 2024-06-27).
  5. 仕組み経営. 「石田梅岩とは?石門心学、都鄙問答などについて解説。」. (参照 2024-06-27).
  6. odamasayoshi.com. 「石田梅岩の思想と名言|都鄙問答という商人道の教えを解説」. (参照 2024-06-27).
  7. 心学明誠舎. 「石田梅岩の経営哲学に学ぶもの」. (参照 2024-06-27).
  8. imidas. 「石門心学(せきもんしんがく)」. (参照 2024-06-27).
  9. Osaka Gakuin University Repository. 「森田健司『柴田鳩翁の「道話」における禁欲主義心学』」. (参照 2024-06-27).
  10. 100年企業戦略オンライン. 「三方よしの現代ビジネスへの影響と成功事例」. (参照 2024-06-27).